アルコール依存症からの回復

アルコール依存症からの回復のステップ

ドクター・ボブ生誕139年

1879年8月8日
ロバート・ホルブルック・スミス誕生


1885年~1894年
サマーストリート小学校に通う


1894年(15歳)
セント・ジョンズベリー学院入学


1898年
セント・ジョンズベリー学院卒業
ダートマス大学入学


1902年
ダートマス大学卒業


1902年~1905年
製造関係の会社に就職


1905年秋(26歳)
医学部学生としてミシガン大学入学


1907年秋
ラッシュ大学三年生に編入


1910年(31歳)
ラッシュ大学卒業
医学博士の学位授与


1910年~1912年
オハイオ州アクロン市立病院にてインターン実習


1912年(33歳)
アクロンの第二ナショナル銀行ビル内に
クリニックを開業


1914年~1919年
飲酒が酷くなり断酒


1915年1月25日
シカゴにおいて
アン・ロビンソン・リプリーと結婚


1919年1月16日
禁酒法可決後に再飲酒


1919年
一人息子のスミッティが生まれる


1924年
当時5歳のスーを養女として迎える


1929年
肛門科および直腸外科の専門医師資格取得


ボルティモアーオハイオ鉄道の
アクロン管区の緊急担当医


1933年
自身のアルコホリズムを克服しようと
オックスフォード・グループの
ミーティングに参加し始める


【1935年】


5月12日(母の日)
オハイオ州アクロンで
ドクター・ボブとビル・Wが出会う


6月2日(日曜日)
アメリカ医学界総会のため
アトランティックシティ行きの列車に乗り込むと
ありったけのスコッチを飲み干す


6月3日(月曜日)
バーで思い切り飲み
それから部屋に戻って飲み続ける


6月4日(火曜日)
朝から飲み始める
アクロンへ戻るため駅に向かったが
途中でさらに酒を買い込む
その後の記憶がなくなる


6月6日(木曜日)
ボブのクリニックの看護師夫婦の家で目を覚ます
アンとビルがボブを迎えに行く


ボブが帰宅した時
6月10日(月曜日)に
ボブが手術執刀を控えている事が分る


6月7日(金曜日)8日(土曜日)9日(日曜日)
ボブは酒を抜いた


6月10日(月曜日)
ボブ、アン、ビルはパニックに陥っていた。
はたしてボブに手術執刀ができるのか?
緊張しすぎても、震えていても手術はできない。
メスの手元がひとつ狂えば
患者の命を奪う事になるのだから。
手術執刀のため市立病院へ向かう途中
ボブは時折
自分の手をかざして
震えがおさまっているかどうか調べていた。
車が止まる寸前
アンと同じく現実主義者だったビルは
ボブにビールを一本、手渡した。


1935年6月10日午前9時頃
ビルが手渡した一本のビールが
ボブの飲んだ最後の酒となる


その地はアクロン
時は1935年6月10日
アルコホーリクス・アノニマスの
奇跡の回復の連鎖が始まる


1937年
ドクター・ボブとビルは
回復の連鎖反応に気づき
ビッグブックの必要性を合意


1939年4月10日
ビッグブック発刊


1939年8月
ドクター・ボブとシスター・イグナシアが
聖トーマス病院で
アルコホーリクの治療を開始する


ボブは
他界する1950年まで
AAのメッセージを
5,000人以上のアルコホーリクの男女に伝え
彼らの医療費の請求にことは考えずに
治療を施した。


その並外れた奉仕において
彼はオハイオ州アクロンの
聖トーマス病院のシスター・イグナシアの
助力を多く得た。


ボブは毎日
聖トーマス病院のアルコール病棟に出向いていましたが
彼には優秀な外科医としての通常業務がありましたから
これは
AAの完全なボランティア活動だったのです。


はまり込んでいた恐ろしい呪いから解かれるのは
何とも言いようのない素晴らしい恵みである。
私は健康状態もよくなり
自尊心や同僚からの信頼も取り戻した。
家庭生活は申し分なくなり
仕事は
こうした不確定の時代にしては
望み得ないほどにうまくいっている。


私は自分が受け取ったものを
それを必要とし
望んでいる他の人たちに手渡していくことに
多くの時間を費やしている。
それには4つの理由がある。


1.使命感(Sense of duty)
2.他の人たちが回復していくのを見る事は
  私にとっての喜びだから(It is a pleasure)
3.そうするなかで
  私を助けてくれた仲間への
  恩返しになるから
4.そうするたびに
  私自身の再飲酒に対する危険を
  減らす事ができるから


どうしてAAミーティングに欠かさず来るのですか?
という質問に
ボブは下記のように答えている。


私自身の再飲酒に対する危険を減らず事ができるからだよ。


私はアルコホーリクの仲間に会う事が
楽しみでしょうがないんだよ。


今にも
あのドアから入ってくるかもしれない
新しい仲間のために
私は
この場所に座っているんだ。
AAプログラムを実践している
私自身の存在が
AAプログラムの有効性を証明する事になるんだから。


新しい仲間が来てくれるからこそ
私は
ミーティングに足を運ぶ
そうすると
私自身の再飲酒に対する危険を減らず事ができるんだ。


友人たちが楽しそうに飲んでいるのを見て
自分は飲めない事を思うとひどく動揺したが
自分にもかつてはそうした特権があったのに
ひどく乱用したために取り上げられてしまったのだと
自分に言い聞かせるようにした。
誰一人として私を突き倒して
酒を無理やり私の喉元に
流し込んだわけではないのだから。


もしあなたが無神論者、不可知論者、懐疑論者
あるいは本書を受け容れる妨げになっているような
何らかの知的プライドをお持ちなら
それを残念に思う。
まだあなたが
自分は一人で酒を克服できるほど
強い意志があるとお考えだとしても
それはあなたの自由だ。


だがあなたが本当に
永久に酒をやめたいと願い
心底助けが必要だと思うのなら
私たちにはそのための答えが提供できる。
あなたに次のもう一杯を手に入れるために
費やした熱意の半分もあれば
それは決して失敗することはない。


あなたの天なる父(Heavenly Father)は
決してあなたを
失望させることはなさらない。


1939年11月~12月
アクロンAAが
オックスフォード・グループから決別
ドクター・ボブの自宅で
ミーティングが始まる


1942年
ボブとビルがビッグブックで
不当な利益を得たとして糾弾される


1948年夏
ドクター・ボブは前立腺癌を自覚し
診察業務から引退


1948年12月(デトロイト)
ドクター・ボブの重要なスピーチ


これまでの13年間のAAの成果を
私たちはよく知っています。
しかし
私たちはここから
どこへ向かっていくのでしょうか?
私たちのメンバー数は現在
ひかえめに見積もっても
7万人には達していると思われます。
これからも
メンバーは増えていくのでしょうか?
たぶん
それはAAメンバー一人ひとりの活動しだいでしょう。
私たちの選択によって
成長することも
成長しないこともあり得ます。
私たちにまとわりつく
派閥の争いさえ避けることができたら
また
論争をひきおこす問題
宗教的、政治的
禁酒運動のような飲酒の問題に対して
慎重であるならば
そしてセントラル・オフィスを通じて一体性を保ち
私たちのプログラムのシンプルさを
大切にしていくならば
さらにまた
私たちが自らの責任
すなわち飲まないで生き
それを続け
私たちより不運な境遇にいる友人たちにも
同じプログラムが与えられるよう
手助けをしていくことを忘れないならば
私たちはこれからも成長し
ゆるしあい
発展し続けることができるでしょう。


1949年3月
ドクター・ボブ
AA評議会は時期尚早と判断


1949年6月1日
アン・リプリー・スミス死去


アンの死亡が報道されると
ボブがAAの共同創始者である事が
一般社会にも伝えられた。


スミス夫人の素晴らしい働きが
存命中にひろく認められなかったのは
残念に思われるが
彼女が救った数多くの人々の心には
感謝の気持ちがあふれている。
この地に誕生したAA運動を大切にし
この運動を育てるために
数多くの事を成し遂げたこの立派な女性を
アクロンの人々は誇りにすべきである。


1950年6月28日~30日
クリーブランドにて
第1回インターナショナル・コンベンション開催
12の伝統を承認する
これがドクター・ボブにとって
最後の大規模集会への参加となった


~ドクター・ボブのラストメッセージ~


私たちのシンプルな12のステップを
煮詰めてみると
それは
『愛』と『サービス』という言葉に
溶け込んでしまいます。


「口は災いの元」であることを
忘れないでください。
言葉を使う必要がある時には
思いやり、熟慮、忍耐の心で
それを用いましょう。


私たちには
AAのプログラムを説明するために
時間をかけ
背中をたたいて最初の1回か2回の
ミーティングに案内してくれた人がいました。
その親切で思慮深い
ささやかではあっても
たくさんの行いをしてくれた人々がいなかったら
私たちの誰一人として
ここにはいなかったでしょう。
ですから
私たちを救ってくれたこの偉大なサービス活動を
まだ幸運に恵まれていない友人たちに
手渡さないような
そのような自分であってはなりません。


ボブは
他界する前に
やっておかなければならないAAの仕事がひとつ残っていた。
それは
提案されている評議会にかかわるものであり
ある意味では
多くのAAメンバーたちに対して
そしてまた
これからやってくるすべての仲間に対して贈る
ボブの
そしてビルの
「サービス」というレガシーのことだった。


ビルは
たとえ失敗しても
とにかく評議会を招集しなければならない
と考えていた。


ボブは言った。


ビル
それは私たちの
ではなく
AAの決定でなければならない。
その評議会を
ぜひ招集しよう。
私は良いことだと思う。


ビルは
ボブの家の前の踏み段を降り
もう一度
ボブを目に焼き付けるために振り返った。


ボブは
明るいグレーのスーツをきちんと着て
直立不動で立っていた。
これが私のパートナーだ!
私に対しては
一度として辛らつな言葉など言ったことのない人物だった。
懐かしいあの開けっぴろげの微笑みを浮かべて
冗談のようにボブは言った。


忘れるなよ。
ビル。
これを台無しにするなよ。
シンプルのままにしておこうじゃないか!


それが
二人の会話の最後となった。


死についてボブは
ひじょうに気軽に語っていたという。


空港で飛行機が離陸する時
その飛行機は
しばらくの間は見えているが
やがて見えなくなる。
だが
見えなくなっても
バラバラになったり
消えてしまったりしたわけではないのだ。
飛行機は
新しい地平線に向かうだけだ。
それが
私の死に対する感じ方なんだ。
私はそこでも
新しい地平線を見つけるのだと思う。


1950年11月16日
ドクター・ボブは
この世の苦しみから去り
「新しい地平線」へと飛び去った。


葬儀は
古い聖公会の教会で
ウォルター・タンクス牧師によって
執り行われた。


15年前にかかってきた一本の電話。
ウォルター・タンクス牧師がそれを受ける事によって
はじめてボブとビルの出会いの扉が開かれた。


ボブは
マウント・ピースの共同墓地に埋葬された。
彼の隣には
長年連れ添ってきたアンが眠っている。


そこには
壮麗な記念碑も
AAの碑文も見当たらず
ただ「シンプルな墓石」があるだけだった。



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