アルコール依存症からの回復

アルコール依存症からの回復のステップ

ビッグブック ビルの物語

1891年3月4日
ビルの妻ロイスが
ニューヨークのブルックリンで生まれる。
彼女の父、クラークバーナムは
婦人科医と外科医であり
彼女の母親、マチルダスペルマンは
洗練された若い女性でした。


ロイスは、バーバラ、キャサリン、ロジャースとライマンの
2人の少年を含む6人の子供の中でも最も年上でした。


ロイスたちは、両親に深く愛され
愛情豊かで思いやりのある子供に成長しました。


ロイスの主な関心事は
ファインアートからインテリアデザインまで
ほとんどが芸術的でした。


ロイスは冒険が大好きで
いつもドレスアップをしていませんでした。


1895年11月26日
ビル(ウィリアム・グリフィス・ウィルソン)が
バーモント州イースト・ドーセットで生まれる。


ビルは、バーモント州の採石場の町に育った。
10歳の時、大酒飲みの父はカナダへ去り
母は病弱の子供を自分の両親にゆだねて
ボストンへ行ってしまった。
両親が離婚した時
ビルの幸せな子供時代はバーモント州で砕かれました。
この時、ビルは彼の人生の中で直面した
一連のうつ病のうちの最初のものを経験しました。
ビルは高校生なると、クラスのリーダーとなりました。
しかし結婚しようとしていた最愛の女の子
Bertha Banfordの予期せぬ死は
ビルが高校を卒業できないほど
深刻なうつ病発症の原因となりました。


ビルは
自分の生い立ちとロイスの生い立ちを比べ
劣等感を持っていたように思います。
ビルは劣等感を打ち消すために
お金でロイスを幸せにしようとしたのでは?


お金を得るためにアルコールと投機で武器をこしらえた。


ロイスの弟ロジャースが
ビルの高校の同級生エビーと友達になり
エビーがビルと親友になりました。


1913年
ロイスの弟ロジャースは
ビルとも友達となりビルをロイスに紹介


1915年
ビルとロイスが婚約


1918年1月24日
ビル(22歳)とロイス(27歳)が結婚


ビルとロイスは子供を望んでいましたが
ロイスの一連の子宮外妊娠により妊娠は不可能に。
原因は結婚してから大幅に増えていった
ビルの飲酒の可能性もあったようです。



その後ビルは第一次世界大戦戦地へ


ぼくたちは
熱烈な歓迎を受け
英雄の気分だった。
そこには
愛と称賛と
そして戦争があった。


第一次世界大戦は
1914年7月28日から1918年11月11日にかけて
戦われた世界大戦である。



ようやく人生と呼べるものを手にしたぼくは
その興奮のさなかにアルコールを発見した。
ぼくは、飲む事について家族が持っている
強い心配と偏見を忘れていた。


僕はひどく孤独になって
またアルコールに向かった。


ぼくはウインチェスター大聖堂を訪ねた。


あのウインチェスター大聖堂で経験したことの
実際の意味がはっきりとわかった。
しばらくの間
ぼくは神を必要とし
神を欲した。


ビルは
1918年
ウィンチェスター大聖堂で
神の存在を感じる経験(霊的体験)を
しているようです。



イギリスのウィンチェスター大聖堂の
古い墓石に刻まれた、へぼな詩



Here lies a Hampshire Grenadier
Who caught his death
Drinking cold small beer.
A Good soldier is ne'er forgot
Wherther he dieth by musket
Or by pot.


ハンプシャーの近衛の一歩兵
ここに眠る。
冷えた小ビールを飲みながら死んでいった男
この良き兵士は忘れ去られはしない
歩兵銃で死んだのか
酒でしんだのかはわからなくとも



禁酒法
アメリカ合衆国史における禁酒法は
1920年から1933年まで
アメリカ合衆国憲法修正第18条下において施行され
消費のためのアルコールの製造、販売、輸送が
全面的に禁止された法律。
「高貴な実験」とも揶揄された。


禁酒法は「ドライ」
主にプロテスタントの宗派によって要求された。
彼らは政府が「道徳」を定めなければならないと主張。


一方で「ウェット」 ― 主に一部のプロテスタント
(米国聖公会、ドイツのルーテル教会)と
ローマのカトリック教会は「ドライ」に対抗した。
彼らは
政府が「道徳」を定めなければならないという考えを非難した。




1920年代
狂騒の20年代または狂乱の20年代とは
アメリカ合衆国の1920年代を表現する語である。
バブル経済に基づく空前の繁栄



1929年
ウォール街株価大暴落株
一般には世界恐慌のきっかけとされている。


最初の暴落は1929年10月24日(木曜日)に起こったが
壊滅的な下落は28日(月曜日)と同29日(火曜日)に起こり
アメリカ合衆国と世界に広がる前例の無い
また長期にわたる経済不況の警鐘と始まりに急展開した。
株価大暴落は1か月間続いた。


世界大恐慌
ニューヨーク市場で株価が大暴落したのをきっかけに
世界的に深刻な長期不況に陥った。
米国の景気後退は1933年まで続き
1930年代を通じて経済は沈滞した。




僕ほどの統率力があれば巨大な企業のトップでも務まる。


自分が人目置かれて当たり前の人物である事を
世間に見せてやるのだ。


ぼくはアルコールと投機で
武器をこしらえ始めていた。
その武器は
あとになって
ブーメランのように戻ってきて
他ならぬ自分を
めった裂きにしてしまうことになるのだが。


僕達は仕事を辞めて
サイドカー付きのバイクにまたがって
1年で合衆国の東部を全部回った。


ビルが10歳の時に母と離れ離れになり
高校生の時に最愛の女の子を失った経験により
ビルがロイスを失う事をとても怖れていたために
ロイスとバイクで1年間の旅に出たのではないかと
思っています。



株価は1932年に底値をつけていた。
ぼくは何とか買い手を集めた。
そうしてかなりの利益の分け前を
手にできるはずだったが
メチャメチャに深酒を続けたおかげで
そのチャンスを逃してしまった。


ビルの飲酒は
現実逃避だけでなく
大きなチャンスを前にしても
すでに
コントロールをする事が
できなくなっていたようです。


ビルのステップ1
ぼくが自分を哀れんで
落ち込んでいたひどい泥沼の中での
その時の孤独と絶望はとても言葉では言い尽くせない。
浮砂は八方から流れ込み
押しつぶされそうだった。
ぼくは闘いの相手の正体をつかんだ。
手も足もでなかった。
アルコールが
僕の支配者だった。


1933年には
ニューヨーク州ブルックリンにある
ロイスの実家に厄介になっていた。
ビルは誰も雇ってくれない酔っぱらいに身を落とし
宗教を軽蔑し、通りで物乞いまでしていました。


ぼくの義弟は医師をしていた。
この義弟と「ぼくの母」が気を使ってくれ
ぼくは全米でももっとも名の知れた病院
タウンズ病院に
アルコホリズムの精神と身体の
リハビリテーションを受けるために
入院させてもらうことになった。


この義弟はビルの妹
(ビルには、彼より4歳年下の妹、ドロシーがいました)の
ご主人だと思います。


そしてこの義弟は
成年に達するP224の
レオナード・V・ストロング二世ではないかと?
ビルはレオナードからウィラード・リチャードソンを
紹介してもらう。
リチャードソンは何年もロックフェラー氏の
私的な慈善事業にかかわっていた。


ビルは
恐怖のためしばらく飲まないでいた。
だが知らぬ間にあの最初の一杯への狂気が襲ってきて
1934年11月11日の休戦記念日に
また飲み始めた。


1931年
アルコホリズムに苦しむ
ニューヨークの投資銀行家の
ローランド・ハザードがスイスを訪れ
著名な心理学者カール・ユング博士に
助けを求めました。
ユング博士はローランドに
スピリチュアルな経験を通じて人格が変化すれば
飲まないでいられる望みがあると述べました。


ローランドはニューヨークに戻り
オックスフォード・グループを探しました。



ローランド・ハザードは
オックスフォード・グループに加わって
その教義を実行しました。


オックスフォード・グループの教義は


降伏・罪の点検・告白(分かち合い)・償い・神の導き・証し


キリスト教では
神さまから頂いた恵みを人に伝えることを
「証(あかし)をする」と言いいます。


すると
探し求めた変化とスピリチュアルな経験が
彼のうちに生まれ
彼は死ぬまで飲まずにすごせたようです。


ローランドとオックスフォード・グループの友人は
ローランドの旧友エビー・サッチャーが
精神病院に入院させられるという知らせを
耳にしました。
裁判所の法廷でローランドたちは
エビー・サッチャーの刑の執行を猶予するように
判事を説得しました。
ローランドたちは
簡単な宗教的な考え方と実践的な行動のプログラムを
エビー・サッチャーに手渡しました。


ローランドはエビーを
ニューヨークのサム・シューメーカー師の
カルバリー伝道所に案内しました。
エビーはそこで
アルコホリズムに苦しむ人たちへの働きかけを
開始しました。


1934年11月
エビーは旧友のビル・Wを訪ねました。
アルコホリズムから回復するための
解決策と
解決策を手にするための行動のプログラムを
ビル・Wに届けました。


ビルのステップ2
「自分で理解できる神の概念を選べばいいんだ。」
自分より偉大な力を
信じる意欲さえあればいいのだ。
始めるのには
そのほかには何も必要ない。



ビル・Wのソーバーは
1934年12月11日から始まりました。


タウンズ病院入院のため
地下鉄までクリントン通りを歩いていた時
どうせ病院に引き受けてもらうのなら
その前にちょっと良い気分になったって
いいだろうと思った。
ツケでビール4本を購入した。
通りに出て1本飲み
地下鉄に乗ってもう1本飲んだ。
タウンズ病院近くの駅のプラットホームで
もう1本を一気に飲み干した。
そして最後の1本を片手に
タウンズ病院へ入って行った。



1934年12月
エビーはタウンズ病院にビルを訪れ
再度オックスフォード・グループのプログラムを
ビル・Wに伝えました。


ビルのステップ3
ぼくは
ようやく自分が理解している神に
あなたの計画のままに私をお使いくださいと
謙虚に自分を捧げた。
神の配慮と指図のもと
条件を付けずに心から自分を差し出した。
生まれて初めて
自分は何物でもないこと
神なしでは自分もない事を認めた。


ビルのステップ4
厳しい態度で自分の罪に対面し
ぼくたちは自分が傷つけた人たち
自分が恨みを持っている人たちのリストを作った。


ビルのステップ5
学生時代の友人が訪ねてきた時
僕は自分の問題と欠点を思い切って全部彼に話した。


ビルのステップ6・7
それを新しく見つけた友である神に
取り除いてもらう気持ちになった。
ぼくが意識している神にすがって。


ビルのステップ8
僕はこの人たちに自分の誤りを認める心の準備が
きちんとできているのだという事も言った。


ビルのステップ9
相手を決して批判しなかった。
僕は自分にできる限り
一つ一つの事を正していった。


ビルのステップ10
ぼくは自分が考えている事を調べる。
信仰は1日24時間
ぼくたちの中で
またぼくたちを通して
外へ働かなければならない。
さもなければ滅びてしまう。


ビルのステップ11
確かでない時は
静かに座って
神の計画のままにぼくの問題の方向付けと
それに立ち向かう強さが得られますように願う。
人の役に立つための願いのほかは
決して自分のためには祈らない。
そのとき初めて
自分に何かが与えられるだろう。
受けとるのは
はかりしれないほど大きなものである。
ぼくは
あらゆる事柄を
ぼくたち全員の上に輝いている
父である神にゆだねなければならない。


ビルのステップ12(霊的に目覚め)
これらは革命的な思いきった提案だった。
だがその提案を完全に受け容れた瞬間に
効果は電撃のように現れた。
続いて勝利感が
それからかつて一度も味わったことのない
平安と落ち着きがやってきた。
完全な自信があった。
僕が軽やかに打ち上げられている山の頂には
清らかな力強い風が吹いていた。
幾たびも
やむことなく。
神の訪れは
ふつう
ゆっくりとしたものである事が多いのだろう。
ただ僕の場合
それは僕の深いところに突然訪れたのだった。


ビルのステップ12(アルコホーリクに伝え)
友人が僕にしたように
僕にも他の人と一緒に取り組むことが特に欠かせない。
行いを伴わない信仰は死んでいると
彼は言った。
これはアルコホーリクにとって
ぞっとするほどの真実ではないか!
なぜなら
もしアルコホーリクが
他の人への働きかけと自分を犠牲にする事を通して
霊的な生き方を育て
広げることができなかったなら
彼らはこの先いつくるかわからない
試練や窮地に生き残れない。
取り組まなければまた飲んでしまう。
飲めば必ず死ぬ。
死んでいる信仰
それは僕たちにとってはこういうことだったのだ。


ビルのステップ12(すべてのことにこの原理を実行)
友人は
この原理を生活のどんな事にも実践する事が
絶対に必要だと強調した。



私がドクターボブと出会ったのは
ウォール街の仕事で
オハイオ州のアクロンへ出張した時の事だった。
だからAAは
私が生計を立てていく必要に直面した
努力の中から生まれたのだとも言える。
(ビルはこう思う№128)



AAは
1935年5月12日(母の日)に
オハイオ州アクロンで
ビル・Wとドクター・ボブが出会ったことから始まりました。
ボブは2年間
オックスフォード・グループに通っていたので
ボブの解決策も行動のプログラムも知っていました。
しかし飲酒はとまらなかった。
ビルはシルクワース博士に言われたとおりに
ボブの問題は
肉体的アレルギーと
精神的強迫観念であると指摘しました。
自分の問題が理解できるとボブはすぐに回復し始めました。


1935年6月10日の朝
外科医であったドクター・ボブが
手術を控え手が震えていたため
ビル・Wが1本のビールをドクター・ボブに手渡しました。
そのビールがドクター・ボブの最後の飲酒となり
AAの創立とされています。


ビル・Wとドクター・ボブは
アルコホーリクを探して病院に行き
ビル・ドッドソンという男に会いました。
そしてその男に問題と解決策について話し
行動のプログラムを伝えました。
彼はそれを受け容れ
実行し
そして回復しました。


ビル・Wは
回復のプログラムの全体を把握した
最初の人物です。


問題:シルクワース博士から
(ステップ1)


解決策:ユング博士から
    ローランド、エビーを経由して
(ステップ2)


行動のプログラム:オックスフォード・グループの教義から
(ステップ3~12)


数年の内にアクロンとニューヨークの二つの町で始まった
依存症者の集まりは
回復者が百人を越えるようになった。
そこで
ビル・Wはアルコール依存症からの回復についての
経験をまとめた本を書くことに決めた。
その本の第5章で
ビルは「どうやればうまくいくのか」を説明し
12のステップを文書化した。
このステップの考えは
オックスフォードグループの6つのステップを
アルコール依存症からの回復に特化したものだった。
1939年発行されたこの本のタイトルは
熟慮の結果『アルコホーリクス・アノニマス』が選択され
そしてこれが新しい運動の名前にもなった。


降伏する~ステップ3
私たちの意志と生き方を
自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした


罪を点検する~ステップ4
恐れずに
徹底して
自分自身の棚卸しを行い
それを表に作った


告白する・分かち合う~ステップ5
神に対し
自分に対し
そしてもう一人の人に対して
自分の過ちの本質をありのままに認めた


償いをする~ステップ8・9
私たちが傷つけたすべての人の表を作り
その人たち全員に
進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった
その人たちやほかの人を傷つけない限り
機会あるたびに
その人たちに直接埋め合わせをした


神に導きを求める~ステップ11
祈りと黙想を通して
自分なりに理解した神との
意識的な触れ合いを深め
神の意志を知ることと
それを実践する力だけを求めた


証しをする~ステップ12
これらのステップを経た結果
私たちは霊的に目覚め
このメッセージをアルコホーリクに伝え
そして私たちのすべてのことに
この原理を実行しようと努力した


ビル・Wはさらに
ステップ1・2・6・7・10を加えて
こんにちの12のステップをまとめあげました。



1971年1月
ビルは、彼の重症肺気腫の治療法を探して
マイアミ・ハート・インスティテュートに
プライベートジェット機で飛行しました。
ビルは飛行中に
良い精神状態であったと言われていますが
ビルの身体は衰弱していました。
ビルは1月24日
ビルとロイスの結婚記念日に人生の幕を閉じました。
享年:75歳
ソーバー:36年間



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