アルコール依存症からの回復

アルコール依存症からの回復のステップ

ビッグブック ドクター・ボブの悪夢

アルコホーリクス・アノニマスの共同創始者の一人。
私たちの共同体の誕生は
彼が永久に飲まない生き方に入ったその日
1935年6月10日と日付を同じくする。


1879年8月8日
ロバート・ホルブルック・スミス誕生


私はニューイングランドの
バーモント州セント・ジョンズベリーの
セントラル・アンド・サマー街
人口約7,000人ほどの小さな村で生まれた。


村の人たちの道徳基準は
私が記憶する限り
平均をはるかに上回っていた。
町には教会や学校がたくさんあり
私もここで初等教育を受けた。


私の父は
人もその能力を認める専門職に就いていた。
ウォルター・ペリン・スミス判事
州検事、州議会議員、教育長、銀行頭取といった
重職も歴任し
日曜学校の教師を40年間務めていた人物。


母親のスミス夫人は
厳格で口数が少なく
教会活動に熱心だった。


ドクター・ボブの妻、アンは
ボブの飲酒は母親のスミス夫人のせいだと
非難していた。
ボブがダメになったのは
厳しい躾のせいだと感じていたようである。


私は残念ながら一人っ子だった。
このことはおそらく
私がアルコホーリクになるのに
大きな原因となった
身勝手さを生むもとになったと思う。
ボブには
アマンダ・ノースロップという
ずっと年上の里後の姉がいた。
ボブは彼女が大好きだったが
一緒に暮らすことはできず
事実上は一人っ子として育てられた。


高校卒業後
私は全米でも有数の名門大学に入り
そこで4年間をすごしたのだが
このころから
飲むことが主要な課外活動になっていた。
私の生活は
他人の権利、望み、特権などのことは
少しも考えずに
とにかく自分がしたいことをすることを
中心に回っているようだった。



完全に準備万端で授業に出ても
いらいらと震えのため
教室にも入らずに
学生寮に引き返すことも
しばしばあった。


父は
私を立ち直らせようと
遠路はるばるやってきたが
それも無駄だった。
父の訪問には見向きもせず
私は飲み続け
以前より強い酒を
もっと飲むようになっていった。


1912年
ドクター・ボブ
アクロンにてクリニックを開業


私は
しょっちゅう胃の具合が悪かった。
それも2杯ほど酒を飲めば
少なくともその場の数時間は
すっきり治まることがわかって
あっという間に以前のような
飲みすぎ状態に戻った。


私はもはや身体極まっていた。
なぜなら飲まなければ
胃痛の責め苦が襲ってくるし
飲めば飲んだで
今度は神経が同じことをしたからだ。


1915年1月25日
アン・リプリーと結婚


アン・リプリーは学生の時にボブと出会った。
ボブと交際していた17年間
彼女は教師をしていた。


どういうわけか
私たちアルコホーリクは
世界で一番素晴らしい女性を
妻に選ぶ恵みを与えられているようだ。
なぜそんな彼女たちが
私たちがもたらす拷問に
耐えなくてはいけないのかは
私にはわからない。




ドクター・ボブの飲酒は
仕事関係にとどまらず
家庭生活にも影を落としていたが
幼い頃には父親の飲酒問題に気づかなかった
2人の子どもの想い出には
幸せなものが多い。


私は地元の病院に入院することになった。
事態は急速に悪化していった。
最初は節制して飲んでいたが
いつも無惨な失敗に終わった
昔の飲み方に戻るのには
たいして時間はかからなかった。


それから数年間
私にははっきりした2つの恐怖症が現れた。
ひとつは不眠の恐怖
もうひとつは
酒がなくなることへの恐怖だった。
時には私は朝の飲酒欲求に
屈服することもあったが
そうするとほんの数時間で
その日はとても働ける状態ではなくなった。


もし妻が午後外出する予定があれば
大量の酒をこっそり仕入れて
それを石炭入れ
洗濯物入れ
ドアの脇の柱の上
地下室の梁の上
タイルの割れ目などに
こっそり隠した。


私はよく

友人たち
子供たちに
もう飲まないと約束したものだが
そう言った時は心底そう思って
言ったにもかかわらず
舌の根も乾かぬうちに
約束を反故にした。


1933年になって
ビールが合法化された。
ボブは
「ビールなんて無害だ。
ビールで酔っぱらった人なんて
1人もいやしないのだから」と
語っていた。


1933年
自分自身のアルコホリズムを克服しようと
オックスフォード・グループの
ミーティングに参加を始める


オックスフォード・グループの
プログラムの中心には
四つの絶対性が据えられている。


絶対的な正直
絶対的な無私
絶対的な潔白
絶対的な愛
という尺度で
私自身の決定を注意深く吟味すれば
私の解答が道を大きく外れることはまずない と
ボブは語っている。


それから2年半ほど
たっぷり時間をかけて
オックスフォード・グループの教義を
研究したのだが
にもかかわらず
毎晩酔っぱらっていた。


1935年5月11日(土曜日)
ヘンリエッタ・サイバーリングは
ビルからの電話を受けた。


ビルは
私は
オックスフォード・グループの者ですが
ニューヨークから来た酔っぱらいなのです と
彼女に伝えた。


ヘンリエッタ・サイバーリングが
アンに電話をしてきて
私の助けになってくれる人を
私に引き合わせたいから
来ないかと言った。


ところがボブは
母の日のための鉢植えを家に持ち帰り
台所のテーブルの上に置いたまま
そのまま床に崩れ落ちたあと
昏睡状態に陥ってしまった。


1935年5月12日(母の日)
ビル・ウィルソンと出会う


翌日
その女性はまた電話をしてきた。
全然気乗りはしなかったが
儀礼的に私は
「行ってみよう」と言った。
もちろん妻には
15分以上は長居しないという約束を
取り付けた。


ビルはこの時の会話を
下記のように語っている。


完全にお互いさまのことだった。
私は説教するのをやめた。
彼が私を必要とするのと同じように
私もこのアルコホーリクを
必要としていることが分かったのだ。
まさにこれだった!
このギブ・アンド・テイクこそが
今日
AAの12番目のステップ活動の
核心をなしている。


ボブはこの時の会話を
下記のように語っている。


ビルはアルコホリズムの情報を私にくれ
それが役立ったのは疑うべくもない。
何よりも大切なのは
ビルは自分自身の体験から
アルコホリズムなるものが
何なのかを身をもって知っていた
私が話した初めての人間だったことだ。
言い換えれば
ビルは私の考えを話した。
彼はすべての答えを知っていたが
それは本から得た知識ではなかったのだ。


ようするに
ボブにとって重要だったのは
話しているのが
もう一人のアルコホーリクである
という事実だったのである。


私たちは彼女の家に夕方5時きっかりに入り
そこを離れたのは夜更けの11時15分を
回っていた。


のちに私はこの男と2回ほど短い話をし
いっぺんに酒をやめた。


この断酒は大体3週間ほど続いて
それから私は全米医師協会の数日間の会合に
参加するためアトランティック・シティに行った。
列車の中で私はありったけのスコッチを飲み干し
ホテルに向かう途中さらに何本か買い込んだ。
それが日曜日だった。
月曜日は
バーで思いっきり飲み
それから部屋に戻って最後まで飲んだ。
火曜日
私は朝から飲み始めた。
私は駅に向かうまでに
さらに何本か酒を仕入れた。
それ以降のことは
家の近くの友人宅で目を覚ますまで
何も覚えていない。



妻は私を迎えにビルをよこした。
ビルは私を迎えに来て
家のベッドまで送り届けてくれ
その夜もう何杯か酒をくれ
さらに翌朝にビールを一本くれた と
ボブは語っているが
ビルによれば
ボブがアメリカ医学界の総会から戻ったあと
3日間
ボブは酒を抜いたと述べている。


ボブが手術執刀のため
アクロンの東部にある市立病院へ向かう途中
ドクター・ボブは時折
自分の手をかざして
震えがおさまっているかどうかを調べていた。
車が止まる寸前
ビルは
ボブにビールを一本手渡した。


これが
その地はアクロン
1935年6月10日のことで
それがボブの最後の酒となった。
そして
アルコホーリクス・アノニマスが発足した。


ドクター・ボブのステップ9
男は勇敢にも
これまで怖れていた相手の人たちに
自分の問題について話に行った。
驚いた事に
みんなはちゃんと受け入れてくれた。
多くの人が男の飲酒の事を
すでに知っていたのも驚きだった。
男は自分の車で
自分が傷つけた人たちの所を
片っ端から回った。
そうしながら身震いを止める事が
できなかった。
特に仕事関係の人たちの場合
廃業に追い込まれる可能性があったからだ。


夜遅く
彼は疲労困ぱいしながらも
とても幸せな気持ちで家にたどり着いた。
彼はそれ以来飲んでいない。


*ドクター・ボブは
埋め合せをしなければ酒をやめられない事を
ステップ9で学びました。
そして
埋め合せを一日でやり遂げました。


1939年8月
ドクター・ボブとシスター・イグナシアが
聖トーマス病院で
アルコホーリクの治療を開始する


彼は
他界する1950年まで
AAのメッセージを
5,000人以上のアルコホーリクの男女に伝え
彼らの医療費の請求にことは考えずに
治療を施した。
彼は
1日に1人のペースで
ステップを手渡した計算になる。
その並外れた奉仕において
彼はオハイオ州アクロンの
セント・トーマス病院のシスター・イグナチアの
助力を多く得た。


私は自分が学んだものを
それを必要とし
望んでいる他の人たちに伝えていくことに
多くの時間を費やしている。
それには4つの理由がある。


1.義務感
2.楽しみだから
3.そうするなかで
  自分にこれを分け与えてくれた人への
  借りを返すことになるから
4.そうするたびに
  再飲酒に対する保険を少しずつ
  増やしていることになるから



もしあなたが無神論者、不可知論者、懐疑論者
あるいは本書を受け容れる妨げになっているような
何らかの知的プライドをお持ちなら
それを残念に思う。
まだあなたが
自分は1人で酒を克服できるほど
強い意志があるとお考えだとしても
それはあなたの自由だ。
だがあなたが本当に
永久に酒をやめたいと願い
心底助けが必要だと思うのなら
私たちはそのための答えが提供できる。
あなたに次のもう一杯を手に入れるために
費やした熱意の半分もあれば
それは決して失敗することはない。


あなたの天なる神は
決してあなたを
失望させることはなさらない。


1939年11月~12月
アクロンAAが
オックスフォード・グループから決別
ドクター・ボブの自宅で
ミーティングが始まる


1942年
ボブとビルがビッグブックで
不当な利益を得たとして糾弾される



1948年夏
ドクター・ボブは癌を自覚し
診察業務から引退


1948年12月(デトロイト)
ドクター・ボブの重要なスピーチ


これまでの13年間のAAの成果を
私たちはよく知っています。
しかし
私たちはここから
どこへ向かっていくのでしょうか?
私たちのメンバー数は現在
ひかえめに見積もっても
7万人には達していると私は信じています。
これからも
この数は増えていくのでしょうか?
たぶん
それはAAメンバーの
一人ひとりの活動しだいでしょう。
私たちの選択によって
成長することも
成長しないこともありえます。
私たちにまとわりつく
派閥の争いさえ避けることができたら
また
論争をひきおこす問題
宗教的、政治的
禁酒運動のような飲酒の問題に対して
慎重であるならば
そしてセントラル・オフィスを通じて
一体性を維持し
私たちのプログラムのシンプルさを
大切にしていくならば
さらにまた
私たちが自らの責任
すなわち飲まないで生き
それを続け
私たちより不運な境遇にいる兄弟たちにも
同じプログラムが与えられるよう
手助けをしていくことを忘れないならば
私たちは
これからも成長し
ゆるしあい
発展し続けることができるでしょう。


1949年3月
ドクター・ボブ
AA評議会は時期尚早と判断


1949年6月1日
アン・リプリー・スミス死去



1950年6月28日~30日
クリーブランドにて
第1回インターナショナル・コンベンション
12の伝統を承認する
これがドクター・ボブにとって
最後の大規模集会への参加となった


~ドクター・ボブのラストメッセージ~


私たちのシンプルな12のステップを
煮詰めてみると
それは
『愛』と『サービス』という言葉に
溶け込んでしまいます。


過ちをおかす身体器官である舌を警戒することを
忘れないでください。
言葉を使う必要がある時には
親切、熟慮、忍耐の心で
それを用いましょう。


私たちには
AAの原理を説明するために
時間をかけ
背中をたたいて最初の1回か2回の
ミーティングに案内してくれた人がいました。
その親切で思慮深い
ささやかではあっても
たくさんの行いをしてくれた人々がいなかったら
私たちの誰一人として
ここにはいなかったでしょう。
ですから
私たちを救ってくれたこの偉大なサービス活動を
まだ幸運に恵まれていない兄弟たちに
手渡さないような
そのような自分であってはなりません。



1950年11月16日
ドクター・ボブ死去



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