アルコール依存症からの回復

アルコール依存症からの回復のステップ

ビッグブックのステップ4

恐れずに
徹底して
自分自身の棚卸しを行い
それを表に作った


恨みを抱くと
私たちの心は
恨みの感情で支配されてしまう。


怖れを抱けば
私たちの心は怖れで支配される。


他の人を傷つければ
その行為のために抱く罪悪感と後悔によって
私たちは自分の人生を
他人に引き渡してしまう事になる。


これらの恨みや怖れ
人を傷つける行為による罪悪感を
心のなかで再生し続けている限り
自分の人生は他の人に引き渡されてしまう。
それは
結果として
他の人が私たちを支配するのを
認める事にほかならない。


恨みにしても
怖れにしても
そして人を傷つける行為にしても
それらの根っこは同じであり
それは
利己的
不正直
身勝手
怖れ
配慮の欠如 である。


人の過ちはさておいて
私たちは自分自身の誤りだけを
断固として厳しく見つめた。
自分がどこで
利己的で
不正直で
身勝手だったのか。
何を怖れていたのか。
配慮に欠けていなかったか。


どんな問題に対しても
自分の側の欠点を見つけていく事である。
容易に見つからない事もある。
しかし
他の欠点が見つからなくても
「配慮が足りなかったのではないか?」
と自らに問えば
多くの場合
うなずくしかないだろう。
配慮の欠如に気づけば
私たちは自由になる事ができる。


誰もが
共存本能
安全本能
そして
性的な本能をもっている。
このような本能があるからこそ
私たちは人間なのであり
これは人間に不可欠なものである。


これらの基本的本能は
神から与えられたもので
必要なものであるが
ついには
本来の働きをはるかに超える事がよくある。


私たちのステップの目的は
本能を取り除く事ではなく
それを調整し
本来の役割を果たせるようにする事である。


誰にでも性格上の欠点はある。
なぜか?
誰もが
本能を持っているからである。


共存本能
他人に受け容れられたい
尊敬されたい
優位に立ちたい


共存本能は私たちを
利己的にし
不正直にする。
私たちを身勝手にし
怖れの多い人間に
あるいは
配慮に欠けた人間にする。


安全本能
金銭
居場所等を求める。
他の人を必要とする事により
他人を支配したり
他人に依存する。


安全本能があるために
私たちは身勝手になり
不正直になり
利己的になり
怖れを持ち
配慮に欠けた
ふるまいをする。


しかし
私たちは
なかなか自分の過ちを認める事ができない。
過ちを他人のせいにして
その人を恨む方が簡単だからだ。
そして
自尊心を守るために
自分がした事にふたをする。


恨みは
防衛のメカニズムである。
自分ではなく他人が間違っているのだと
自分を納得させるために
私たちは心の中で繰り返し人を裁く。
自分を正当化するために。


恨みは
自然に反したものではない。
私たちの活発さと競争心の
源であるかぎりにおいては建設的である。


怖れも
自然に反したものではない。
もし怖れがなかったら
致命的な危険に直面しても
それに気づかず
私たちの寿命は
ずっと短いものになってしまう。


罪悪感や後悔も役に立つ。
もしなかったら
私たちは
ほんの少しの思いやりすら持つ事なく
人々を踏みつけにするだろう。


つまり
私たちはこれらの本能
および
感情を
本来の目的に沿って適切に
使わなければならないのである。


アルコホーリクは
こうした事が苦手である。


ステップの目的は
こうした性格上の欠点を手放し
それを本来の適切な姿に整える事である。


私たちの本能を
神にゆだねる事により
自分の人生の中で
本能はあるべき姿になっていく。


私たちは精力的に行動を始めた。
第一歩は
これまでやった事のなかった
自分自身の大掃除だった。
むろん決心するステップ3は
きわめて重大で
決定的に重要な役割を果たすものだった。
だが
それだけでは
永続的に新しい生き方を続けていく事はできない。
その決心に「すぐに」続いて
自分の中にある
生きていく上での
障害となってきたものに直面し
それを捨てるための絶え間ない努力をし
続けていかなければならない。


私たちにとって飲む事は
問題の一つの症候にすぎなかった。


だから私たちはその原因と
そのために今どうなっているか?
というところまで掘り下げなくては
どうしようもなかったのだ。


そこで私たちは自分の棚卸を始めた。
これが第4ステップだった。
定期的に棚卸をしない商売は
たいてい倒産するものだ。
棚卸は
事実を把握し
それに正確に向き合おうとする過程であり
在庫品の現状を知るための努力である。
その目的の一つは傷もの
売り物にならない品物をより分けて
思い切ってすぐに処分する事である。


私たちはそれと同じ事を
自分の生き方について行ったのだ。
私たちは正直に棚卸をした。
まず
自分の失敗の原因となっている
自分の欠点を探し出そうとした。
いろいろな形で現れた利己心こそが
失敗の原因だった事を確信した私たちは
その利己心が
普通どのような形で現れていたのか考えてみた。


私たちは人生を振り返ってみた。
徹底して
正直にやる事のほかには何一つ重要な事はなかった。
終わったら
それをじっくり検討してみた。


厳しい態度で自分の罪に対面し
それを新しく見つけた友である神に
取り除いてもらう気持ちになった。


学生時代の友人が訪ねてきた時
僕は自分の問題と欠点を
思い切って全部彼に話した。
僕たちは自分が傷つけた人たち
自分が恨みを持っている
人たちのリストを作った。


第一の犯人は恨みだった。
それは他の何にもまして
アルコホーリクを破滅させる。


それは私たちを
霊的にむしばんでいくすべての原因となった。


恨みの問題に取り組むために
私たちはその内容を紙に書き出した。
自分が腹を立てている人
しきたり
原理などを一覧表にした。
そして
なぜ腹を立てているのか
自分に尋ねてみた。


深い恨みを抱いてすごす人生には
虚しさ
不幸以外には
行き着くところがないのは
目に見えている。


恨みを
そのままにしておく分だけ
もっと楽しくすごせたはずの時間が無駄になるだけだ。


霊的経験の深まりと成長とに
ただ一つ希望をつないでいるアルコホーリクにとって
この恨みの感情は
重大な危機をはらんでいる。
それは致命的なのだ。


こうした感情を抱いていれば
私たちは霊的な光から
自分を締め出してしまう。
するとアルコールに対する狂気が頭をもたげてきて
私たちはまた飲んでしまうのだ。
私たちにとって飲む事は死ぬ事だ。


人の過ちはさておいて
私たちは自分自身の誤りだけを
断固として厳しく見つめた。
自分がどこで利己的で
不正直で
身勝手だったのか?
何を怖れていたのか?
何もかもが自分のせいで
そうなったのではないにしても
他人をまったく抜きにして
考えてみようとした。
自分の非はどこにあるのか?
棚卸しは自分のためのものであって
他人が責任を負うべきものではない。
自分の誤りがわかれば
それを書き出し
はっきり決着をつけた。
正直に自分の誤りを認め
それをきちんと
正そうという気になった。


今度は全く違った角度から見てみる事にする。


私たちはこの世の中や世間の人たちの圧力に
身動きが取れなくなっていたことが見えてきた。
そのような状態では
他人が何か悪い事をすると
実際に悪い事をしたのか?
単なる
自分の思い込みかはともかく
それが自分を殺すほどの威力を持ってしまうのだ。
どうやったら逃げられるのか?
恨みを何とかしなければならない事はわかったが
ではどうすればそれを取り去る事ができるのか?


アルコールと同じく
これも願えば消えるというものではなかった。


彼らのやり方は気に入らず
私たちに大いに反感を抱かせたが
彼らもまた私たちと同じように
病んでいるのだ。
病気の友に喜んで示すような包容力
思いやり
辛抱強さを与えてください と
私たちは願った。


誰かに傷つけられた時


この人は病んでいるのだ。
どうやったらこの人の助けになれるだろうか?
神さま
私を怒りから救い出してください。
あなたの意志が行われますように と祈った。


私たちは報復や論争を避けた。
誰も病人に向かって
そんな事はしないだろう。
でなければ
その人の助けになれるチャンスをつぶしてしまう。
万人の助けになる事はできなくても
少なくとも神は
どうすれば誰に対しても優しく
包容力を持って接する事ができるか?
私たちに示してくれるだろう。


恨んでいる人や物事のために祈りなさい。
自分が望んでいる全てが
恨んでいる相手に与えられるよう祈りなさい。
たとえ本心からでなくても
とにかく祈り続けなさい。
2週間
毎日祈り続けなさい。
そうすれば
これまでとらわれていた敵意と恨みのかわりに
その人たちへの思いやりと理解が
心に満ちあふれてくるのを経験するでしょう。


私たちは
自分の怖れをすべて検討してみた。
恨みにつながらないものについても
紙に書き出した。
なぜ怖れを抱いたのか?
自分に聞いてみた。
自分の力では十分でなかった。
ある程度まではできたが
それだけでは十分に
怖れを取り除く事はできなかった。
かつては大きな自信を持っていた事もあったが
怖れも
その他の問題も消えはしなかった。
自惚れたりした時は余計にひどくなった。


もっと良いやり方がある
私たちはそう考える。
いまや自分たちは違った基礎
つまり神を信頼し
神にゆだねて立っている。
有限の自分ではなく
無限の神を信頼する。
神に定められた役割を果たすために
自分たちはこの世に生きているのだ。
神が意図した自分たちの役割を行い
謙虚に神にゆだねていけば
神は災難を
平安に変えてくれるだろう。


創造主に頼る事を
決して人に弁解する必要はない。
私たちは
霊的な生き方が
軟弱なものだという考えを聞き流す事ができる。


逆説的に言えば
それこそが強さなのである。
歴史は
信仰心は勇気である事をはっきり示している。
信仰を持つ者には皆勇気がある。
彼らは彼らの神を信じている。
私たちは
神を信じている事について決して弁解する必要はない。
そうではなく
神の行いを
私たちを使って
神に示していただくのだ。
自分の怖れを取り除いてもらい
神が私たちに望まれていることに
自分の注意が向くよう
神に願い求める。
すると
怖れはたちまち消え始める。


私たちは
過去の自分自身の行為を振り返ってみた。
私たちはどこで自分勝手であり
不正直であり
思慮を欠いていたか?
誰を傷つけたか?
根拠のない嫉妬
疑惑
反感を他人に抱かせなかったか?
自分はどこで誤ったのか?
その代わりに
どうすべきだったのか?
こうした事柄をすべて
紙に書き出して見つめてみた。


幸せに長生きしたいのなら
私たちは誰かに対して
全面的に
正直にならなければならない。
ごく当然の事であるが
私たちは一身上の秘密を
打ち明ける相手を誰にするかを慎重に考えて選ぶ。
ざんげを義務付けている宗教に属している人は
ざんげの告白を聞く事を職務としている人のところへ
当然行くべきであるし本人もそれを望むだろう。
どんな宗教とも無関係な人も
誰か聖職者に聞いてもらうのもよいだろう。


もしそういう人が見つからなければ
またそうしたくなければ
口の堅い理解してくれる友人を探す。
たとえば
医者とか心理療法士などだ。
身内に頼む事もあるだろうが
妻や親に話す場合
彼らを傷つけ悲しませるような事は
決して話してはいけない。


自分がしたことを悔い
もっと良い方向へ導いてほしいと
心から神に願うならば
私たちは赦され
教訓を学ぶことになる。
だが
悔いる事を忘れて
その後もずっと人を
傷つけ続けるようであれば
確実に飲む事になるだろう。


これは理論ではなく
体験から言っているのだ。


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