アルコール依存症からの回復

アルコール依存症からの回復のステップ

ビッグブック AA小史 (再版にあたって)

アルコホーリクは誰でも
二つの事を知りたがります。


一つは
自分がどうして昔のように
普通に酒を飲む事ができないのか?


アルコホーリクは
アルコールに対して
アレルギーを持っているので
一杯飲むとアレルギー反応が起きて
アルコールを求める
身体の渇望が引き起こされる。
いったん飲み始めると
やめられなくなるのはそのためなのだ。


もう一つは
酒をやめたいのに
どうしてやめられないのか?


アルコホーリクは
いつかきっと
普通の人のように酒をたしなむ事が
できる日が来ると信じているが
しかし
アルコホーリクが
普通の人のように
飲めるようになる事はない。
にもかかわらず普通の人のように
飲みたいというアルコホーリクの執念は
あまりにも強烈だから
いくら断酒を誓っても
「一、二杯なら・・・」
という考えに引き戻され
適量でやめられるはずだと
思い込んで一口飲む。


すると
アレルギー反応が起きて
次々と飲み続けずにはいられなくなる。


ビルはシルクワース博士から
アルコホリズムの深刻な現実を学びました。


1930年
ウィリアム・シルクワース博士は
タウンズ病院でアルコホーリクの治療に取り組む中で
アルコホーリクはアルコールに対する
肉体的アレルギーと精神的脅迫観念という
治る見込みのない病気にかかっていると認識しました。


肉体的アレルギー:渇望現象
精神的強迫観念:欲求に負けて飲む衝動


アルコホーリクに共通する症候がある。
飲み始めたら最後
必ず渇望現象が増進するという事だ。


ふつうの人にとって飲むことは
何の差し障りもないのだ。
そこで
多くのアルコホーリクは欲求に負けて飲み始める。
すると
アルコールへの渇望現象につかまる。
そこでお決まりの段階が始まり
飲みすぎては
後悔に襲われ
もう絶対に飲まないと
固い決心をするということが
何度も何度も繰り返される。
心理現象のような霊的変化が全面的に起こらなければ
その人には回復の希望はほとんどない。


1931年
アルコホリズムに苦しむ
ニューヨークの投資銀行家の
ローランド・ハザードがスイスを訪れ
著名な心理学者カール・ユング博士に
助けを求めました。
ユング博士はローランドに
スピリチュアルな経験を通じて人格が変化すれば
飲まないでいられる望みがあると述べました。


ローランドはニューヨークに戻り
オックスフォード・グループを探しました。


~オックスフォード・グループ運動~
道徳再武装運動ともよばれる。
1921年アメリカのルター派教会牧師
ブックマンによって始められた宗教運動。
1908年イギリスのケズウィックで開かれた
宗教集会で回心を体験した彼は
以後、人間および社会の改革のために必要な
霊的回心と奉献を得る手段として
グループにおける罪の相互告白と決意表明を強調した。
初めオックスフォード大学の学生に回心を説き
ついで南アフリカ、中近東、スイスなどに運動を展開し
1938年以降は愛他主義による
「道徳再武装」Moral Re-Armament(MRA)を唱えた。



オックスフォード・グループの「4つの絶対標準」


「絶対正直」、「絶対純潔」、「絶対無私」、「絶対愛」


オックスフォード・グループの教義は


降伏
意志と生き方を
自分なりに理解した神の配慮に
ゆだねる決心をすること


罪の点検
自分の過去を道徳的に棚卸しすること


告白・分かち合い
短所を認めて告白すること


償い
傷つけた人たちへ埋め合わせをすること


神の導き
神への信仰と依存が必要であること


証し
他の人の手助けをすること


キリスト教では
神さまから頂いた恵みを人に伝えることを
「証(あかし)をする」と言いいます。


ローランド・ハザードは
オックスフォード・グループに加わって
その教義を実行しました。


すると
探し求めた変化とスピリチュアルな経験が
彼のうちに生まれ
彼は死ぬまで飲まずにすごせたようです。


ローランドとオックスフォード・グループの友人は
ローランドの旧友エビー・サッチャーが
精神病院に入院させられるという知らせを
耳にしました。
裁判所の法廷でローランドたちは
エビー・サッチャーの刑の執行を猶予するように
判事を説得しました。
ローランドたちは
簡単な宗教的な考え方と実践的な行動のプログラムを
エビー・サッチャーに手渡しました。


ローランドはエビーを
ニューヨークのサム・シューメーカー師の
カルバリー伝道所に案内しました。
エビーはそこで
アルコホリズムに苦しむ人たちへの働きかけを
開始しました。


1934年11月
エビーは旧友のビル・Wを訪ねました。
アルコホリズムから回復するための
解決策と
解決策を手にするための行動のプログラムを
ビル・Wに届けました。


ビル・Wのソーバーは
1934年12月11日から始まりました。


1934年12月
エビーはタウンズ病院にビルを訪れ
改めてオックスフォード・グループのプログラムを
ビル・Wに伝えました。


エビーの話しは
入院していたビルにスピリチュアルな変化をもたらしました。
ビルは
飲みたいという気持ちが小さくなり、平安を感じたのです。
それはビルの霊的体験であり
ビルのターニングポイントにもなりました。
ビルのことを心配していたシルクワース博士はビルに
「私には理解できない何かが君に起こったんだね。
でもそれにしっかり摑まっていた方がいい。
何であろうが、今の君は前よりましなんだから」と言いました。


ビルはタウンズ病院を退院後
他のアルコホーリクを助けられるのは
アルコホーリクだけであるという考えをもって
大勢のアルコホーリクたちと懸命に関わりましたが
できたのは自分自身がどうにか飲まずにすごせた
という事だけでした。


ビルは商用でアクロンに向いましたが
商取引は見事に失敗に終わり
もしかするとまた飲んでしまうのではという
怖れを抱く事になります。


独り落ち込んでいたホテルのロビーにはバーがありました。
ビルは懐かしいアノ感覚に襲われます。
地元の教会の電話番号が書かれたポスターもありました。
ビルは
バーと教会のポスターの間を行ったり来たりして
バーに入るか教会に電話をするか迷いに迷っていました。
ビルはまさしくその時、ビルの人生だけでなく
何百万人ものアルコホーリクの人生を変える事になった
究極の選択をせまられていたのです。


その時ビルは
いま自分を救うためにこそ
自分のメッセージを他のアルコホーリクに
伝えなくてはならないと悟りました。
その相手のアルコホーリクが
アクロンのドクター・ボブでした。


ボブはアルコホーリクでしたが
ビルとの話を15分間で終わらせるつもりでビルに会いました。
しかし
ビルとボブが同じバーモント州出身だということが分かり
2人は打ち解け合います。
彼らは自分達の飲酒の経験と
飲酒が彼らの人生にどれだけダメージを与えたかを分かち合いました。


そしてボブは
ビルが自分自身の体験からアルコホリズムなるものが何なのかを
身をもって知っていた
ボブが話した初めての人間であり
ビルはボブの考えを話したと、語っています。


ようするに
ボブにとって重要だったのは
話しているのが
もう一人のアルコホーリクである
という事実だったのである。


もしも
この時ボブに
ウィリアム・ジェームズ
カール・ユング
ドクター・シルクワース
フランク・ブックマン
オックスフォード・グループの会員が
話しかけたとしても
しょせんは
ありきたりの講義で終わっていた事でしょう。


AAは
1935年5月12日(母の日)に
オハイオ州アクロンで
ビル・Wとドクター・ボブが出会ったことから始まりました。
ボブは2年間
オックスフォード・グループに通っていたので
自身の解決策も行動のプログラムも知っていました。
しかし飲酒はとまらなかった。
ビルはシルクワース博士に言われたとおりに
ボブの問題は
肉体的アレルギーと
精神的強迫観念であると指摘しました。
自分の問題が理解できたボブは回復し始めました。


しかし
ドクター・ボブは
1935年6月2日(日曜日)
アメリカ医学界総会のため
アトランティックシティ行きの列車に乗り込むと
すぐに手当たりしだいに飲み始めてしまった。
6月3日(月曜日)
夕食までしらふで通したが
バーで思い切り飲み
それから部屋に戻って飲み続けた。
6月4日(火曜日)
朝から飲み始め
アクロンへ戻るため駅に向かったボブは
途中でさらに酒を買い込んだ。
その後の記憶がボブにはなく
6月6日(木曜日)
ボブのクリニックの看護師夫婦の家で目を覚ました。
アンとビルがボブを迎えに行き、ボブの家まで連れ戻した。
ボブが帰宅した時
アンとビルは
6月10日(月曜日)には、ボブが手術執刀を控えている事が分った。
6月7日(金曜日)、8日(土曜日)、9日(日曜日)
ボブは酒を抜いた。
6月10日(月曜日)
ボブ、アン、ビルはパニックに陥っていた。
はたしてボブに手術執刀ができるのか?
緊張しすぎても、震えていても手術はできない。
メスの手元がひとつ狂えば
患者の命を奪う事になるのだから。
手術執刀のため市立病院へ向かう途中
ボブは時折
自分の手をかざして
震えがおさまっているかどうか調べていた。
車が止まる寸前
アンと同じく現実主義者だったビルは
ボブにビールを一本、手渡した。


1935年6月10日の午前9時頃
ビルが手渡した一本のビールが
ボブの飲んだ最後の酒となった。


その地はアクロン
時は1935年6月10日
アルコホーリクス・アノニマスの
奇跡の回復の連鎖が始まった。


それからビルとアンは帰宅し
手術の結果を待つ事になった。
それから何時間もすぎてから
ボブから電話が入った。
手術は成功したのである。
だが
その電話の後
ボブは帰ってこなかった。


ボブは勇敢にも
これまで怖れていた相手の人たちに
自分の問題について話しに行った。
驚いた事に
みんなはちゃんと受け入れてくれた。
多くの人がボブの飲酒の事を
すでに知っていたのも驚きだった。
ボブは自分の車で
自分が傷つけた人たちの所を
片っ端から回った。
そうしながら身震いを止める事ができなかった。
特に仕事関係の人たちの場合
廃業に追い込まれる可能性があったからだ。


夜遅く
ボブは疲労困ぱいしながらも
とても幸せな気持ちで家にたどり着いた。


このことは一人のアルコホーリクは
そうでない人には
決して真似できない影響を
他のアルコホーリクに与えることを
示していると思われる。
また一人のアルコホーリックが
精力的に他のアルコホーリクに
働きかけることは
その人自身の回復を永続的にするために
不可欠であることも教えてくれている。


ビル・Wとドクター・ボブは
アルコホーリクを探して病院に行き
ビル・ドッドソンという男に会いました。
そしてその男に問題と解決策について話し
行動のプログラムを伝えました。
彼はそれを受け容れ
実行し
そして回復しました。


ビルとボブは
他のアルコホーリクを助ける方法を見つけ出します。
その核心はいたってシンプルであり
一人のアルコホーリクが他のアルコホーリクと
経験と力と希望を分かち合うというものでした。
その後、ビルとボブは
それまで誰もなし得なかった
多くのアルコホーリクの手助けが出来るようになります。
なぜなら
ビルとボブには、アルコホーリクとしての経験があり
アルコホリズムが彼らの人生にどのような影響を及ぼしたかを
知っていたからでしょう。


1935年
このアクロンでの取り組みにより
アクロンに最初のAAグループが生まれた。
AAの友人
T・ヘンリーとクラレンス・ウィリアムズの自宅において
AAグループの初めてのミーティングが開かれた。


すぐに2つ目のAAグループが
ニューヨークでつくられ
ブルックリンのビルとロイスの自宅で
ミーティングが開かれた。


1937年には
クリーブランドに三つ目のグループができた。


1939年、ビッグブック発刊後
クリーブランドのプレインディーラーは
AAの記事を2ヶ月にわたり定期的に掲載しました。
特に、AAのスポンサーシップについて紹介しました。


クリーブランドの草分けのメンバーたちは
クリーブランドにおける突然の成長において
新しいメンバーへステップを手渡すための
三つの本質的な事実を証明しました。


①スポンサーシップの重要性


②ビッグブックの価値


③広報の必要性


クリーブランドの記録では
AAに繋がった仲間の93%が
再飲酒しなかった。


ビル・Wは
回復のプログラムの全体を把握した
最初の人物です。


問題:シルクワース博士から
(ステップ1)


解決策:ユング博士から
    ローランド、エビーを経由して
(ステップ2)


行動のプログラム:オックスフォード・グループの教義から
(ステップ3~12)


ビルとボブは
1935年9月頃には
酔っぱらいたちが関心を持てるような
案内書あるいはプランを書く事に
真剣に取り組んでいました。


その後
ビルとボブは
私達の課題に対する回答は
聖書の中にあると確信しました。
私達のような古くからの者にとって
無条件に重要であると思われる箇所は
山上の説教
コリントの信徒への手紙の第13章
ヤコブの手紙であった と。


ビッグブック出版の計画は
1938年5月には
既にその準備が始まっている。


アクロンのメンバーは
ビッグブックをビルに書いてもらいたいと
考えていたが
同時に下記のように考えた。
この本はビル1人のものではなく
私たちみんなの本にしたい。
ビルが草稿を書き進めるのと平行して
私たちがそれを読み
意見を出し合えば
全員の知識と経験を分かち合うことができる。
ビルはそれに同意し執筆を始めた。


ビッグブックは
AAの最初の100人のメンバーが踏んだ
回復のプログラムについて書かれている。
AAは
この12のステップに基づくプログラムを
学ぶ事から生まれた。


第1章と第2章が
1938年6月には完成した。


アルコホーリクス・アノニマスは
一時
ビッグブックの著者名として
提案された事がある。
アルコホーリクス・アノニマス著
『百人の男たち』という提案である。
他の書名の提案として
『出口』
『安息の場所』
『夜明け』
などがあったが
アルコホーリクス・アノニマスは
すでに1937年には共同体の名称として
限定的に使われ始めていたのである。


ビルはアン(ボブの妻)に
『妻たちへ』の章を執筆するように提案している。
アンがそれを書かなかったのは
ひとえに彼女の謙虚さの
せいだったのかもしれない。


ロイスもその章を書く事はなかった。
彼女は自分が書こうかと申し出たが
ビルから
「いや、だめだ。
本にまとめるには文体の統一が必要だ」と
断られたのである。


後にロイスは述べている。
「そのことで、ずっと私は傷ついていました。
今でも
どうしてビルは私に頼まなかったのか?
その理由が分かりません。
もっとも
私からは二度と蒸し返すことは
しませんでしたが・・・」と。


結局
ビルが『妻たちへ』の章を自分で書いた。


宗教的な本を望んだ仲間と
心理学的な本を望んだ仲間がいた。
ビルは最終的に
その中庸として
霊的な本を書く事になる。


ステップ2では神を
「自分を超えた大きな力」と表現する事にした。
ステップ3と11では
「自分なりに理解した神」という言葉を挿入した。
ステップ7から
「ひざまずいて」という表現を取り除いた。
そして
これらのステップへの導入文として
次のような言葉を書いた。


次に
私たちが踏んだステップを示す。
回復のプログラムとして
示されているものである。


AAのステップは提案でなければならない と
ビルは考えたようです。


これが信仰の薄い人や
あるいは信仰をまったくもたない人々に
対する最終的な譲歩だった。
無神論者や不可知論者達の偉大な貢献だった。
彼らは
私達の入り口を広くして
苦しんでいる人なら誰でも
その人の信仰や信仰の欠如にも関係なく
通り抜けられるようにしたのだった。


ビッグブックの小売価格を
3ドル50セントに決めました。
どうしても1ドルにと強く主張した仲間もいたし
2ドル50セントというメンバーもいた。


反対した仲間に納得してもらうためにも
印刷工場にある一番厚い紙での印刷を指示した。
そのため初版の本が非常に分厚くなり
「ビッグブック」という名で
親しまれるようになった。


ビッグブックの第5章で
ビルは「どうやればうまくいくのか」を説明し
12のステップを文書化した。
このステップの考えは
オックスフォードグループの6つのステップを
アルコール依存症からの回復に特化したものだった。
1939年発行されたこの本のタイトルは
熟慮の結果『アルコホーリクス・アノニマス』が選択され
そしてこれが新しい運動の名前にもなった。


降伏する~ステップ3
私たちの意志と生き方を
自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした


罪を点検する~ステップ4
恐れずに
徹底して
自分自身の棚卸しを行い
それを表に作った


告白する・分かち合う~ステップ5
神に対し
自分に対し
そしてもう一人の人に対して
自分の過ちの本質をありのままに認めた


償いをする~ステップ8・9
私たちが傷つけたすべての人の表を作り
その人たち全員に
進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった
その人たちやほかの人を傷つけない限り
機会あるたびに
その人たちに直接埋め合わせをした


神に導きを求める~ステップ11
祈りと黙想を通して
自分なりに理解した神との
意識的な触れ合いを深め
神の意志を知ることと
それを実践する力だけを求めた


証しをする~ステップ12
これらのステップを経た結果
私たちは霊的に目覚め
このメッセージをアルコホーリクに伝え
そして私たちのすべてのことに
この原理を実行しようと努力した


ビル・Wはさらに
ステップ1・2・6・7・10を加えて
こんにちの12のステップをまとめあげました。


ビッグブックが出版されると
いろいろな事が起こり始めました。


1939年9月には
リバティー誌に「アルコホーリクと神」という記事が掲載され
AAのスピリチャルな原理が紹介されました。
熱狂的な問い合わせが殺到し
ビッグブックの売り上げは伸びていきます。


1940年春
ジョン・D・ロックフェラー二世は
晩餐会にAAメンバーを招待しました。
ビルはこの時
経済的援助が得られるのではないかと密かに期待していました。
しかし、その晩餐会で
ジョン・D・ロックフェラー二世の息子である
ネルソン・ロックフェラーは
「私があなた方に求めているのは、経済的援助ではなく
このビッグブックを
この本を必要としているアルコホーリクに
手渡してほしいということだ」と呼びかけました。
ビルは、経済的援助は失敗だと思いましたが
晩餐会に同席していたアルバート・スコットに
「多額の経済的援助は、AAのスピリチャリティーを
壊すことになりかねない」と助言されます。
このロックフェラーのAAメンバーとの晩餐会は
世界中に報道され、問い合わせの渦が殺到し
多くの人がビッグブックを買い求めました。
AAのスピリチュアルな回復のプログラムが
自立したセルフサポートであると評価されたのです。
AAは「自助グループ」を確立させました。


1941年、著名な記者:ジャック・アレクサンダーが
サタディー・イブニング・ポスト紙に
AAの特集記事を書きました。
人を感動させずにはいられないAAの姿を
一般の読者に紹介したのです。
その結果、助けを求めてアルコホーリクが押し寄せ
その年の暮れまでに
AAのメンバー数は8,000を超え
次々にグループが生まれていきました。
女性メンバーも増え
多くのメンバーが回復していきました。


そして
AAの「3つのレガシィ」が生まれます。
回復
一体性
サービス です。


回復は、12のステップに記されていて
AAメンバー個人の回復を実現しています。
これはたくさんの知識と経験から生まれたプログラムであり
アルコホリズムの奴隷となって苦しんでいるアルコホーリクを
救い出すための道標となっています。


ビルは
12のステップは
各メンバーのソブラエティと心の平安のためにあり
12の伝統は
もっと良い生き方をするための道標
であると述べています。


一体性は伝統に記されています。
たくさんの、気移りしがちなアルコホーリクたちが
一緒に仲良くやっていけるものだろうか?
伝統1「個人の回復はAAの一体性にかかっている」
一人では飲酒の問題を克服する事ができなかったけれども
仲間と一緒であれば克服できるということを強調しています。
伝統5「各グループの本来の目的はただ一つ
今苦しんでいるアルコホーリクにメッセージを運ぶことである」
各グループはその一つの目的によって一体性を保っているのです。


アルコホーリクス・アノニマスは、宗教的な組織ではない。
また
医療や宗教関係の人たちと、広く一緒に行動するが
特定の医学的な見方や、宗教の信条はとらない。


サービスは、12の概念に記されています。
メッセージを運ぶという我々の12番目のステップは
AAが行う基本的なサービスです。
これこそが、我々が存在する主な理由であり最重要目的です。
さらに
まだ苦しんでいる仲間が回復の道に手を伸ばす橋渡しになる全てを含みます。
12番目のステップそのものから
ミーティングを開催する事、会場を設営する事
仲間に電話をする事、書籍の発行など、あらゆるサービスが含まれます。


1935年以来
アルコホーリクス・アノニマスの共同体は
私たち人間が抱えている問題を
どう解決することができるのかという提案を
回復のステップとして示している。


ビッグブックは
アルコホーリクに共通する問題を
克服していくための
実践的な解決策について説明し
その解決策をいかに日々の生活の中で
実行するかについて述べている。


当時のAAは
ビッグブックに書いてある通りの
回復のプログラムを踏んでいた。
ビッグブックには
多くの人がプログラムで回復し
家族関係が元に戻った事で
AAが急成長を遂げたと記されている。
12のステップを踏んで
真剣にアルコホリズムに取り組んだ人の
75%が実際に回復した。


まだ解決を見つけていない人が
ビッグブックの中に答えを見いだし
新しい自由への道を
私たちと一緒に
歩き始めてくれることを・・・


私たちはただただ願う。


A group of A.A. people in California
(possibly Long Beach) in the 1940's:
Bill W. is on the right,
Dr. Bob is on the left,
and Anne Smith (with cigarette) is in the center.

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