アルコール依存症からの回復

アルコール依存症からの回復のステップ

ビッグブック~ビルの物語~

1895年11月26日
ビル・Wが
バーモント州イースト・ドーセットで生まれる。


ビル・W
本名:ウィリアム・グリフィス・ウィルソン


https://ja.wikipedia.org/w/undefined?action=edit&section=6


ビルは、バーモント州の採石場の町に育った。
10歳の時、大酒飲みの父はカナダへ去り
母は病弱の子供を自分の両親にゆだねて
ボストンへ行ってしまった。
両親が離婚した時
ビルの幸せな子供時代はバーモント州で砕かれました。
この時、ビルは人生の中で直面した
一連のうつ病の症状の最初の経験をしました。



ビルの母親はボストンに移り
オステオパシー医学を学び
ハーバード大学で学位を取得した女性の一人でした。


オステオパシー とは
日本の大正期にカイロプラクティック
スポンディロセラピーと同様にアメリカから導入され
指圧や整体など日本の手技療法に大きな影響を与え
共に「療術」と呼ばれていた。


ビルは高校生なると、クラスのリーダーとなりました。


私は背高のっぽで
のろまで
それが嫌でたまらなかった。
ケンカをすると
私より背の低い子供たちに
小突き回される事がよくあったからだ。
だからそれから
勝ってやろうという激しい決意をもつようになった。
常にナンバーワンになるのだ。


私はスポーツ選手ではなかったため
スポーツ選手にならなければならなかった。
だから私は
野球チームのキャプテンになった。


楽器が弾けなかったから
音楽家にならなければならなかった。
バイオリンを必死で習って
高校のオーケストラの指揮者までになった。


全寮制学校の生徒会長にならなければならなかった。


全てにわたって
一番にならなければならなかった。


私は常にリーダーであり
そうでなければならなかった。
私は
ナンバーワンでなければならない。


やがて
校長のお嬢さんが登場した。
まだぎこちない年ごろだったが
ことは完璧にいった。


私にはロマンスがあり
安心があり
称賛があった。
有頂天で幸せだった。


しかし結婚しようとしていた最愛の女の子
Bertha Banford の予期せぬ死は
ビルが高校を卒業できないほど
深刻なうつ病発症の原因となりました。


自分のものがひとつでも欠けるのを
受け容れる事ができず
あれほど深く沈み込み
あれほど長く落ち込んでしまうような事は
なかっただろう。


1891年3月4日
ビルの妻ロイスが
ニューヨークのブルックリンで生まれる。
彼女の父、クラークバーナムは
婦人科医と外科医であり
彼女の母親、マチルダスペルマンは
素敵な女性でした。


ロイスは、バーバラ、キャサリン、ロジャースとライマンの
2人の少年を含む6人の子供の中で最年長でした。


ロイスたちは、両親に深く愛され
愛情豊かで思いやりのある子供に成長しました。


ロイスの主な関心事は
美術やインテリアデザインなど
ほとんどが芸術に関するものでした。


また
ロイスは冒険が大好きで
ドレスアップには関心がありませんでした。


ロイスは第一次世界大戦中に需要が高かった
作業療法士になるためのプログラムに参加し
病院で仕事をしていました。


作業療法士
身体機能の回復と心のリハビリのスペシャリスト


その後
彼女はYWCAで働きましたが
ビルと結婚するため
YWCAを退職しました。


YWCA
Young Women's Christian Associationは
キリスト教を基盤に
世界中の女性が言語や文化の壁を越えて力を合わせ
女性の社会参画を進め
人権や健康や環境が守られる平和な世界を実現する国際NGOです。
1855年英国で始まり
今では日本を含む120あまりの国で
約2,500万人の女性たちが活動しています。


ロイスの弟ロジャースが
ビルの高校の同級生エビーと友達になり
エビーがビルと親友になりました。


1913年
ロイスの弟ロジャースは
ビルとも友達となりビルをロイスに紹介


1915年
ビルとロイスが婚約


1918年1月24日
ビル(22歳)とロイス(27歳)が結婚



私は
ニューベッドフォードの若い将校だった。
私たち2人は
街の上流階級の中に身を置くようになった。
生まれて初めて執事というものに出会った。


ぼくたちは
熱烈な歓迎を受け
英雄の気分だった。
そこには
愛と称賛と
そして戦争があった。


第一次世界大戦は
1914年7月28日から1918年11月11日にかけて
戦われた世界大戦である。



再び
あの恐ろしい無力感と
わずか二言三言話すともうあとは続けられないという
臆病さに襲われるようになった。


だがある晩
誰かからブロンクスというカクテルを手渡された。


酒で身を滅ぼした親類が私にはたくさんおり
酒の事では何度も警告を受けていた。


ぼくは、飲む事について家族が持っている
強い心配と偏見を忘れていた。


それにもかかわらず
私は最初の一杯に手をつけた。
もう一杯
さらにもう一杯と・・・


何という魔力だろう!
私は生命の霊薬を発見したのだ!


私と周囲の人を常に隔てていた
訳の分からない障壁が取り除かれた。
新しい仲間は私に近づくようになり
私も新しい仲間に近づいていった。
私はついに花形になった。
楽に話ができ
通じ合えるようになった。


間もなくしてぼくたちは
「海の向こうへ」旅立った。


ぼくはひどく孤独になって
またアルコールに向かった。
大量のアルコールに頼った。


ぼくたちはイギリスに上陸した。
ぼくはウインチェスター大聖堂を訪ねた。


ビルは
1918年
ウインチェスター大聖堂で
神の存在を感じる経験(霊的体験)を
しているようです。



イギリスのウィンチェスター大聖堂の
古い墓石に刻まれた、へぼな詩



Here lies a Hampshire Grenadier
Who caught his death
Drinking cold small beer.
A Good soldier is ne'er forgot
Wherther he dieth by musket
Or by pot.


ハンプシャーの近衛の一歩兵
ここに眠る。
冷えた小ビールを飲みながら死んでいった男
この良き兵士は忘れ去られはしない
歩兵銃で死んだのか
酒でしんだのかはわからなくとも


22歳のぼくは
歴戦の勇士として帰って来た。
歩兵中隊の仲間達も
ぼくを表彰してくれたのだ。


ぼくほどの統率力があれば
巨大な企業のトップでも務まる。


自分が人目置かれて当たり前の人物である事を
世間に見せてやるのだ。


ぼくはアルコールと投機で
武器をこしらえ始めていた。
その武器は
あとになって
ブーメランのように戻ってきて
他ならぬ自分を
めった裂きにしてしまうことになるのだが。


ぼくたちは仕事を辞めて
サイドカー付きのバイクにまたがって
1年で合衆国の東部を全部回った。



禁酒法
アメリカ合衆国史における禁酒法は
1920年から1933年まで
アメリカ合衆国憲法修正第18条下において施行され
消費のためのアルコールの製造、販売、輸送が
全面的に禁止された法律。
「高貴な実験」とも揶揄された。


禁酒法は「ドライ」
主にプロテスタントの宗派によって要求された。
彼らは政府が「道徳」を定めなければならないと主張。


一方で「ウェット」 ― 主に一部のプロテスタント
(米国聖公会、ドイツのルーテル教会)と
ローマのカトリック教会は「ドライ」に対抗した。
彼らは
政府が「道徳」を定めなければならないという考えを非難した。



1920年代
狂騒の20年代または狂乱の20年代とは
アメリカ合衆国の1920年代を表現する語である。
バブル経済に基づく空前の繁栄



1929年
ウォール街株価大暴落株
一般には世界恐慌のきっかけとされている。


最初の暴落は1929年10月24日(木曜日)に起こったが
壊滅的な下落は28日(月曜日)と同29日(火曜日)に起こり
アメリカ合衆国と世界に広がる前例の無い
また長期にわたる経済不況の警鐘と始まりに急展開した。
株価大暴落は1か月間続いた。


世界大恐慌
ニューヨーク市場で株価が大暴落したのをきっかけに
世界的に深刻な長期不況に陥った。
米国の景気後退は1933年まで続き
1930年代を通じて経済は沈滞した。



アルコールはぼくの生活の中で
気分を引き立たせてくれる
重要な一部分になっていた。


ぼくはますます深酒をするようになり
昼も夜も飲むようになった。
友人たちも忠告をしなくなり
孤独な一匹狼になった。
ぼくたちは豪華なアパートに住んでいたが
家の中ではたくさんの不幸な場面が繰り広げられた。


ビルとロイスは子供を望んでいましたが
ロイスの子宮外妊娠により妊娠は不可能に。
原因は結婚してから大幅に増えていった
ビルの飲酒の可能性もあったようです。


ぼくは朝
ぶるぶる震えるようになっていた。
ゴルフをしていれば
おおっぴらに昼も夜も飲めた。
少年の頃に憧れていた
この高級ゴルフコースを回るのは楽しかった。


1933年には
ニューヨーク州ブルックリンにある
ロイスの実家に厄介になっていた。
ビルは誰も雇ってくれない酔っぱらいに身を落とし
宗教を軽蔑し、通りで物乞いまでしていました。


ぼくたちは
妻の両親の家に居候する事になった。
妻はデパートで働き始め
疲れて帰宅すると
いつもそこには酔っぱらったぼくがいるのだった。


酒はもはや贅沢なものではなく
必需品になっていた。
そのうちに
朝早くからひどい震えがきて
目が覚めてしまうようになった。
なんとか朝食を喉に通そうと思ったら
グラス一杯のジンに続いて
半ダースのビールが必要だった。
そんなになっていても
ぼくはまだ何とかできると思っていたし
妻が今度こそはという希望を持ち始められるくらい
飲まずにいる期間もあった。


株価は1932年に底値をつけていた。
ぼくは何とか買い手を集めた。
そうしてかなりの利益の分け前を
手にできるはずだったが
メチャメチャに深酒を続けたおかげで
そのチャンスを逃してしまった。


シルクワース博士は下記のように述べられている。


アルコホリズムがあくまでも
精神のコントロールの問題だという立場には
私は同意しかねる。
たとえば
アルコホーリクがビジネス上の取引に何ヶ月も取り組んできて
ある日
それがうまく解決できるような見通しがたったとしよう。
彼は
その大切な日を前に一杯飲んでしまい
すると
いっぺんにアルコールへの渇望現象が他の何よりも強くなって
結局その大切な約束の日に
身動きができなくなるというような例を
私は多く見てきた。
彼らは逃避するために飲んだのではなく
自分の精神ではコントロールできない
身体的な渇望に屈して飲んだのである。



ぼくは目が覚めた。
こんな事はもうやめなければならない。
一杯も飲んではいけないのだ。
もう二度とアルコールには手を出さないと決心した。


だが幾らもたたないうちに
ぼくは酔っぱらって帰宅した。
何の抵抗もなかった。
ぼくは気が狂ったのだろうか?
狂ったとしか思えなかった。


ぼくは決意を新たにして
またがんばってみた。
それで幾らか時がたつと
自信は過信に置き換わった。
今度こそ大丈夫だ。
やがてウィスキーが頭に上がってきて
次は何とかうまくやるから
今はとことん飲んでやれと言い聞かせた。
そしてその通りにした。


あくる朝の後悔
怖れ
絶望感を忘れられない。
次は頑張るぞという気はもうなかった。


朝刊は
株がまたしても暴落したと報じていた。
ぼくも同じだった。
市場はまた持ち直すだろう。
でもぼくには回復の見込みがない。


身体と精神への拷問のあまりのひどさに
自分が窓もサッシも突き破って
飛び降りるのではないかと怯えた夜もあった。
飲んでいれば全くといってよいほど食べなかったので
やせて平均体重を20キロほど下回ってしまった。


ぼくの義弟は医師をしていた。
この義弟と「ぼくの母」が気を使ってくれ
ぼくは全米でももっとも名の知れた病院
タウンズ病院に
アルコホリズムの精神と身体の
リハビリテーションを受けるために
入院させてもらうことになった。


この義弟はビルの妹の
(ビルには、彼より4歳年下の妹、ドロシーがいました)
ご主人だと思います。


そしてこの義弟は
成年に達するP224の
レオナード・V・ストロング二世ではないかと?
ビルはレオナードからウィラード・リチャードソンを
紹介してもらう。
リチャードソンは何年もロックフェラー氏の
私的な慈善事業にかかわっていた。


アルコホリズムにかかると
他の事にはきちんと働く意志の力が
アルコールを撃退するには
驚くほど弱くなってしまうのを知って
ぼくは幾らか安心した。
何とかしてやめようと思いながら
信じがたい行為をしてしまう自分について
説明がついたのだ。
自分を知ったからには
意気揚々と出発できる。
そうして3~4ヶ月は調子が良かった。


ところがそうではなかった。
また酒に手を出してしまう恐るべき日が来たのだ。
まもなくぼくはタウンズ病院に戻った。
これで一巻の終わりだ。
幕は下りた。
ぼくはそう思った。
いっぽう
疲れきって絶望した妻は宣告を受けていた。
振戦せん妄状態の間に心臓発作が来れば万事休すだし
さもなければ
1年以内に酒浸けの脳のほうは狂う事になるだろうし
やがてぼくを葬儀屋か精神病院に引き渡す事になるだろうと。


ぼくの誇りは
酷い打撃に傷ついていた。
かつては自分自身を
自分の能力を
障害を乗り越える自分の力を高く買っていたぼくは
行き止まりの窮地に追い込まれていた。


ビルのステップ1


ぼくが自分を哀れんで
落ち込んでいたひどい泥沼の中での
その時の孤独と絶望はとても言葉では言い尽くせない。
浮砂は八方から流れ込み
押しつぶされそうだった。
ぼくは闘いの相手の正体をつかんだ。
手も足もでなかった。
アルコールが
僕の支配者だった。


しばらくの間は
がんじがらめの恐怖と
絶えず続く不眠のために飲まずにいた。
飲むのではないかという怖れはだんだん薄らいできた。
それほど努力しなくても飲まないでいられるようになった。
私はアルコホリズムについて皆に話すようになった。
酒を勧められても
自分の病気の本質について知り得た知識を
自分から進んで伝えようとしたものだった。


だが知らぬ間にあの最初の一杯への狂気が襲ってきて
1934年11月11日の休戦記念日に
また飲み始めた。


1931年
アルコホリズムに苦しむ
ニューヨークの投資銀行家の
ローランド・ハザードがスイスを訪れ
著名な心理学者カール・ユング博士に
助けを求めました。
ユング博士はローランドに
霊的な経験を通じて人格が変化すれば
飲まないでいられる望みがあると述べました。


ローランドはニューヨークに戻り
オックスフォード・グループを探しました。


~オックスフォード・グループ運動~
道徳再武装運動ともよばれる。
1921年アメリカのルター派教会牧師
ブックマンによって始められた宗教運動。
1908年イギリスのケズウィックで開かれた
宗教集会で回心を体験した彼は
以後、人間および社会の改革のために必要な
霊的回心と奉献を得る手段として
グループにおける罪の相互告白と決意表明を強調した。
初めオックスフォード大学の学生に回心を説き
ついで南アフリカ、中近東、スイスなどに運動を展開し
1938年以降は愛他主義による
「道徳再武装」Moral Re-Armament(MRA)を唱えた。



オックスフォード・グループの「4つの絶対標準」


「絶対正直」、「絶対純潔」、「絶対無私」、「絶対愛」


オックスフォード・グループの教義は


降伏
意志と生き方を
自分なりに理解した神の配慮に
ゆだねる決心をすること


罪の点検
自分の過去を道徳的に棚卸しすること


告白・分かち合い
短所を認めて告白すること


償い
傷つけた人たちへ埋め合わせをすること


神の導き
神への信仰と依存が必要であること


証し
他の人の手助けをすること


キリスト教では
神さまから頂いた恵みを人に伝えることを
「証(あかし)をする」と言いいます。


ローランド・ハザードは
オックスフォード・グループに加わって
その教義を実行しました。


すると
探し求めた変化とスピリチュアルな経験が
彼のうちに生まれ
彼は死ぬまで飲まずにすごせたようです。


1934年9月
ローランドとオックスフォード・グループの友人は
ローランドの旧友エビー・サッチャーが
精神病院に入院させられるという知らせを
耳にしました。
裁判所の法廷でローランドたちは
エビー・サッチャーの刑の執行を猶予するように
判事を説得しました。
ローランドたちは
簡単な宗教的な考え方と実践的な行動のプログラムを
エビー・サッチャーに手渡しました。


ローランドはエビーを
ニューヨークのサム・シューメーカー師の
カルバリー伝道所に案内しました。
エビーはそこで
アルコホリズムに苦しむ人たちへの働きかけを
開始しました。


1934年11月
エビーは旧友のビルを訪ねました。
アルコホリズムから回復するための
解決策と
解決策を手にするための行動のプログラムを
ビルに届けました。



寒々とした11月が終わろうとしていた。
ぼくは台所で一人座って飲んでいた。



エビーはアルコホリズムから開放されたと言った。
そして、「簡単にいうと、信仰を持ったんだ」とも言った。
だが彼は
説教に雄弁をふるうような事は全くしなかった。


彼が自分にできなかった事を
神が彼のためにしてくれたのだと
単純明快に宣言したのだ。
彼は意志の力では
どうにもできなかった。


人間の心の奥底には
不可能を可能にする何かが働いている。
奇跡と呼ばれるものに対する考えを
ぼくはそこで
大もとから変える事になった。


生き証人の友人がいるのに
ぼくには古い偏見の跡が残っていた。
神という言葉は
まだある種の反感をぼくに引き起こした。


友人は
その時のぼくには珍しい考えとしか思えなかった事を言った。


「自分で理解できる神の概念を選べばいいんだ。」


このシンプルな教えを実行する力が得られるよう
神に祈る努力をすべきだという事
そしてその神は自分がいると思っている神なら
何でもいいという事だ。
神を信じないというなら
ひょっとするといるかもしれないという神でもいいから
試しに祈ってみるように言われた。


ビルのステップ2


ぼくははっとなった。
これまでぼくが長い事その陰に隠れて
震えながら生きて来た知性の氷山が
この時解けた。
ようやくぼくは太陽の光の中に立ったのである。


自分より偉大な力を
信じる意欲さえあればいいのだ。
始めるのには
そのほかには何も必要ない。


ぼくの目から
思い上がりと偏見のうろこが落ちた。


あのウィンチェスター大聖堂で経験した事の
実際の意味がはっきりとわかった。


ビルのソーバーは
1934年12月11日から始まりました。


タウンズ病院入院のため
地下鉄までクリントン通りを歩いていた時
どうせ病院に引き受けてもらうのなら
その前にちょっと良い気分になったって
いいだろうと思った。
ツケでビール4本を購入した。
通りに出て1本飲み
地下鉄に乗ってもう1本飲んだ。
タウンズ病院近くの駅のプラットホームで
もう1本を一気に飲み干した。
そして最後の1本を片手に
タウンズ病院へ入って行った。


1934年12月
エビーはタウンズ病院にビルを訪れ
再度オックスフォード・グループのプログラムを
ビル・Wに伝えました。


降伏した事を認める
自分自身に正直になる
誰かにそれを思いのままに語る
傷つけた人たちに償いをする
見返りを求めずに
惜しみなく献身するよう努力する
そしてどんな神でも
試しにでもいいから
いると思っている神に対して祈る


ビルのステップ3


ぼくは
ようやく自分が理解している神に
あなたの計画のままに私をお使いくださいと
謙虚に自分を捧げた。
神の配慮と指図のもと
条件を付けずに心から自分を差し出した。
生まれて初めて
自分は何物でもないこと
神なしでは自分もない事を認めた。


ビルのステップ4


厳しい態度で自分の罪に対面し
ぼくたちは自分が傷つけた人たち
自分が恨みを持っている人たちのリストを作った。


ビルのステップ5


学生時代の友人が訪ねてきた時
僕は自分の問題と欠点を思い切って全部彼に話した。


ビルのステップ6・7


それを新しく見つけた友である神に
取り除いてもらう気持ちになった。


ビルのステップ8


ぼくはこの人たちに自分の誤りを認める心の準備が
きちんとできているのだという事も言った。


ビルのステップ9


相手を決して批判しなかった。
ぼくは自分にできる限り
一つ一つの事を正していった。


ビルのステップ10


ぼくは自分が考えている事を調べる。
ぼくが意識している神にすがって。
信仰は1日24時間
ぼくたちの中で
またぼくたちを通して
外へ働かなければならない。
さもなければ滅びてしまう。


ビルのステップ11


確かでない時は
静かに座って
神の計画のままにぼくの問題の方向付けと
それに立ち向かう強さが得られますように願う。
人の役に立つための願いのほかは
決して自分のためには祈らない。
そのとき初めて
自分に何かが与えられるだろう。
受けとるのは
はかりしれないほど大きなものである。


友人は
これらの事をした後には
自分の問題を解決する生き方の鍵を
手にできるだろうと約束した。


自分を超えた偉大な力への信仰に加えて
新しい秩序を作り
保っていくための充分な
意欲
正直さ
開かれた心(謙虚さ)
が欠かす事ができない条件だった。


HOW(どうやればうまくいくのか)
Honesty(正直さ)
Open mindness(開かれた心)
Willingness(意欲)


どんなアルコホーリクでも
こうした霊的概念に対して
(自分を超えた偉大な力への信仰)
心を閉ざさずに
自分の問題に正直に直面する事ができれば
私たちの体験に照らして
回復できるという事である。


障害となるのは
不寛容で
攻撃的な否認の態度だけだ。


このプログラムの「霊的」な部分で
つまずく事はまったくない。
意欲と
正直さと
開かれた心とが
回復に必要な核心である。
これらなしには
回復はありえない。


これはシンプルだが
やさしい事ではない。
代価は払わなければならない。
ステップを実行する事は
自分中心の生き方を破り捨てる事を意味した。


あらゆる事柄を
ぼくたち全員の心の奥底にある
自分を超えた偉大な力に
ゆだねなければならない。


ビルのステップ12(霊的に目覚め)


これらは革命的な思いきった提案だった。
だがその提案を完全に受け容れた瞬間に
効果は電撃のように現れた。
続いて勝利感が
それからかつて一度も味わったことのない
平安と落ち着きがやってきた。
完全な自信があった。
僕が軽やかに打ち上げられている山の頂には
清らかな力強い風が吹いていた。
幾たびも
やむことなく。
神の訪れは
ふつう
ゆっくりとしたものである事が多いのだろう。
ただ僕の場合
それは僕の深いところに突然訪れたのだった。


ビルのステップ12(アルコホーリクに伝え)


友人が僕にしたように
僕にも他の人と一緒に取り組むことが特に欠かせない。
行いを伴わない信仰は死んでいると
彼は言った。
これはアルコホーリクにとって
ぞっとするほどの真実ではないか!
なぜなら
もしアルコホーリクが
他の人への働きかけと自分を犠牲にする事を通して
霊的な生き方を育て
広げることができなかったなら
彼らはこの先いつくるかわからない
試練や窮地に生き残れない。
取り組まなければまた飲んでしまう。
飲めば必ず死ぬ。
死んでいる信仰
それは僕たちにとってはこういうことだったのだ。


ビルのステップ12(すべてのことにこの原理を実践)
友人は
この原理を生活のどんな事にも実践する事が
絶対に必要だと強調した。


酒をやめる事は
ほんの始まりにすぎない。
大事な事は
私たちが自分の家庭や職場や
そして人生のいろいろな場面で
AAの原理を具体的に実践していくことである。


私たちはいつも人間関係の問題を抱えていた。
感情を思うようにできなかった。
みじめさと落込みの餌食になっていた。
生計を立てられなくなっていた。
自分は役に立たない人間だと感じていた。
怖れと不安でいっぱいだった。
不幸だった。
他の人が助けを必要とする時に助けになれなかった。


この工程を労を惜しまず
念入りにやっていると
半分も終わらないうちに
あなたはビックリする事になる。
新しい自由
新しい幸福を
知るようになっているのだ。
過去を悔やむ事もなければ
それにふたをしようとも思わない。
心の落ち着きという言葉が
わかるようになり
やがて平和を知る。
私たちがどんなに落ちぶれていたにしても
自分の経験がどれほど人の役に立つかが
わかるようになる。
自分は役立たずだという
自己憐憫の感情が消え失せる。
利己的な事に関心がなくなり
仲間の事の方に関心がいくようになる。
身勝手さは消えてしまう。
私たちの
人生に対する態度と展望がまるっきり変わる。
人間に対する恐怖症や
経済的不安もなくなる。
かつては私たちを困らせた状況にも
直観的にどう対応したらいいのかが分かるようになる。
自分ではできなかった事を
「自分を超えた偉大な力」が
やってくださっている事を
私たちは突如として気づくようになるのだ。


ステップを実践する事により
人生に対する考えや態度が
根本から変えられている事に気づく。
このプロセスが
「霊的目覚め」
あるいは
「霊的体験」である。


これはとんでもない約束だろうか。
そうは思わない。
こういうことは私たちの間で実際に
ときには急速に(霊的体験)
ときにはゆっくりと(霊的目覚め)
実現している。
取り組みさえすれば必ず実現する。


その頃
エビーはビルにウイリアム・ジェイムスの
「宗教的経験の諸相」を勧めました。
ビルは、AAプログラムの原理をその本の中に見出します。


苦悩、苦痛、不幸という
完全な絶望と最奥での自我の収縮がないと
人間を変える事ができる霊的体験、霊的目覚めを
受け容れられる状態にはなれないようである。


【ビル】
ウイリアム・ジェイムスの本に書かれている事を
アルコホーリクが経験すれば
ほとんどのアルコホーリクが回復できるだろうと思った。
この本を読んで、回復の連鎖を思いついたんだ。
回復したアルコホーリクが、他のアルコホーリクを手助けする。
そして回復したアルコホーリクが
他のアルコホーリクを手助けする。
回復の連鎖は
霊的な経験の連鎖に違いないと感じたんだ。


私がドクターボブと出会ったのは
ウォール街の仕事で
オハイオ州のアクロンへ出張した時の事だった。
だからAAは
私が生計を立てていく必要に直面した
努力の中から生まれたのだとも言える。
(ビルはこう思う№128)


ビルは商用でアクロンに向いましたが
商取引は見事に失敗に終わり
もしかするとまた飲んでしまうのではという
怖れを抱く事になります。


独り落ち込んでいたホテルのロビーにはバーがありました。
ビルは懐かしいアノ感覚に襲われます。
地元の教会の電話番号が書かれたポスターもありました。
ビルは
バーと教会のポスターの間を行ったり来たりして
バーに入るか教会に電話をするか迷いに迷っていました。
ビルはまさしくその時、ビルの人生だけでなく
何百万人ものアルコホーリクの人生を変える事になった
究極の選択をせまられていたのです。


その時ビルは
いま自分を救うためにこそ
自分のメッセージを他のアルコホーリクに
伝えなくてはならないと悟りました。


おまえには話をするもう一人のアルコホーリクが必要なんだ。
その人がおまえを必要としているのと同じように
おまえもその人が必要なんだ!


その相手のアルコホーリクが
アクロンのドクター・ボブでした。


ボブはアルコホーリクでしたが
ビルとの話を15分間で終わらせるつもりでビルに会いました。
しかし
ビルとボブが同じバーモント州出身だということが分かり
2人は打ち解け合います。
彼らは自分達の飲酒の経験と
飲酒が彼らの人生にどれだけダメージを与えたかを分かち合いました。


そしてボブは
ビルが自分自身の体験からアルコホリズムなるものが何なのかを
身をもって知っていた
ボブが話した初めての人間であり
ビルはボブの考えを話したと、語っています。


ようするに
ボブにとって重要だったのは
話しているのが
もう一人のアルコホーリクである
という事実だったのである。


もしも
この時ボブに
ウィリアム・ジェームズ
カール・ユング
ドクター・シルクワース
フランク・ブックマン
オックスフォード・グループの会員が
話しかけたとしても
しょせんは
ありきたりの講義で終わっていた事でしょう。


1935年6月10日の朝
外科医であったドクター・ボブが
手術を控え手が震えていたため
ビル・Wが1本のビールをドクター・ボブに手渡しました。
そのビールがドクター・ボブの最後の飲酒となり
AAの創立とされています。


ビル・Wとドクター・ボブは
アルコホーリクを探して病院に行き
ビル・ドッドソンという男に会いました。
そしてその男に問題と解決策について話し
行動のプログラムを伝えました。
彼はそれを受け容れ
実行し
そして回復しました。


ビルは
回復のプログラムの全体を把握した
最初の人物です。


問題:シルクワース博士から
(ステップ1)


解決策:ユング博士から
    ローランド、エビーを経由して
(ステップ2)


行動のプログラム:オックスフォード・グループの教義から
(ステップ3~12)


数年の内にアクロンとニューヨークの二つの町で始まった
依存症者の集まりは
回復者が百人を越えるようになった。
そこで
ビル・Wはアルコール依存症からの回復についての
経験をまとめた本を書くことに決めた。
その本の第5章で
ビルは「どうやればうまくいくのか」を説明し
12のステップを文書化した。
このステップの考えは
オックスフォードグループの6つのステップを
アルコール依存症からの回復に特化したものだった。
1939年発行されたこの本のタイトルは
熟慮の結果『アルコホーリクス・アノニマス』が選択され
そしてこれが新しい運動の名前にもなった。


降伏する~ステップ3
私たちの意志と生き方を
自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした


罪を点検する~ステップ4
恐れずに
徹底して
自分自身の棚卸しを行い
それを表に作った


告白する・分かち合う~ステップ5
神に対し
自分に対し
そしてもう一人の人に対して
自分の過ちの本質をありのままに認めた


償いをする~ステップ8・9
私たちが傷つけたすべての人の表を作り
その人たち全員に
進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった
その人たちやほかの人を傷つけない限り
機会あるたびに
その人たちに直接埋め合わせをした


神に導きを求める~ステップ11
祈りと黙想を通して
自分なりに理解した神との
意識的な触れ合いを深め
神の意志を知ることと
それを実践する力だけを求めた


証しをする~ステップ12
これらのステップを経た結果
私たちは霊的に目覚め
このメッセージをアルコホーリクに伝え
そして私たちのすべてのことに
この原理を実行しようと努力した


ビル・Wはさらに
ステップ1・2・6・7・10を加えて
こんにちの12のステップをまとめあげました。


1940年代になって、ビルは
同じような団体が既に1800年代に存在していた事を知った。
その団体はワシントニアンと呼ばれていた。
AAに似た運動がかつて存在したが
次第に消えていっていたという事実は
AAの将来についての厄介な暗示を表していた。
ワシントニアンが崩壊した原因は
アルコール依存症からの回復という当初の目的を外れて
日々の様々な問題へと多岐化して
焦点を失ったからだったといわれる。
同じような運命を恐れたため
ビルは
何がAAであって何がAAでないかを定義する
ガイドラインを確立しなければならないと考え始めた。
これは「12の伝統」として記述された。


アルコホーリクス・アノニマスは
経験と力と希望を分かち合って共通する問題を解決し
ほかの人たちも
アルコホリズムから回復するように
手助けしたいという共同体である。


AAのメンバーになるために必要なことはただ一つ
飲酒をやめたいという願いだけである。
会費もないし
料金を払う必要もない。
私たちは自分たちの献金だけで自立している。


AAは
どのような宗教、宗派、政党、組織、団体にも縛られていない。
また
どのような論争や運動にも参加せず
支持も反対もしない。


私たちの本来の目的は
飲まないで生きていくことであり
ほかのアルコホーリクも
飲まない生き方を達成するように手助けすることである。


ビルは個人的な知名度を嫌う人物ではなかったが
12の伝統を決めた後
「公共の無名」の原則がAAが推進する最も素晴らしい
「崇高な原則」であると述べるようになった。
彼がビル・ウィルソンではなく
ファミリーネームをイニシャル化した
ビル・W.で知られるのはこのためである。
ビルは
エール大学からの名誉学位を含む多数の栄誉を辞退し
そしてビルがタイム誌の表紙を
後ろ姿でもいいから飾ってほしいとの申し出も
丁重に断ったのだった。


ウィルソンは禁酒の前後に長いうつに苦しみ
精神科の治療を受けた。
そのときカリフォルニア州のトラブコ大学で
オルダス・ハクスリーや
同大学の創設者ジェラルド・ハードと友人になった。
ハクスリーはビルを
「20世紀の最も偉大な社会の建築家」と呼んでいる。


1950年代にビルとハードは
アルコール依存症者と薬物依存症者が
乱用のサイクルを止めるのを
助ける可能性があるという理論があった
幻覚剤LSDを使った実験をした。
しかし
LSDの有用性についてのこれらの主張は異議を唱えられ
LSDが1970年10月27日に麻薬取締局によって
第一種規制薬物に指定されたために
それ以上の実験はされなかった。


1970年、マイアミで
AA35周年記念インターナショナルコンベンションが開催され
ビルは、その会場で
世界から集まって来たAAの仲間たちに
最後のメッセージを残しました。


ここから
たくさんのAAメンバーを見ていると
とてつもなく大きな平安と安らぎが
私の中に流れ込んでくるのが分かります。
そしてそれは
AAの未来の、大きな証しとなっています。
AAは
神が我々に求められているように
きっと、末永く続いていくことでしょう。
神様、どうか、AAを祝福し、守り
末永く続けさせてください。
みなさんに神の祝福がありますように
アルコホーリクス・アノニマスは永遠です。



1971年1月
ビルは、肺気腫の治療のため
マイアミに
プライベートジェット機で飛行しました。
ビルは飛行中に
良い精神状態であったと言われていますが
身体は衰弱していました。
ビルは1月24日
肺気腫と肺炎のため
ビルとロイスの結婚記念日に人生の幕を閉じました。
享年:75歳
ソーバー:36年間



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