アルコール依存症からの回復

アルコール依存症からの回復のステップ

ビッグブック~ドクター・ボブの悪夢~

アルコホーリクス・アノニマスの共同創始者の一人。
私たちの共同体の誕生は
彼が永久に飲まない生き方に入ったその日
1935年6月10日と日付を同じくする。



1879年8月8日
ロバート・ホルブルック・スミス誕生


私はニューイングランドの
バーモント州セント・ジョンズベリーの
セントラル・アンド・サマー街
人口約7,000人ほどの小さな村で生まれた。


村の人たちの道徳基準は
私が記憶する限り
平均をはるかに上回っていた。
町には教会や学校がたくさんあり
私もここで初等教育を受けた。


私の父は
人もその能力を認める専門職に就いていた。


ウォルター・ペリン・スミス判事
州検事、州議会議員、教育長、銀行頭取といった
重職も歴任し
日曜学校の教師を40年間務めていた人物。


母親のスミス夫人は
厳格で口数が少なく
スミス判事とともに教会活動に熱心だった。


ボブの妻、アンは
ボブの飲酒は母親のスミス夫人のせいだと
非難していた。
ボブがアルコホーリクになったのは
厳しい躾のせいだと感じていたようである。


ボブの娘、スーによると
ボブが幼少期に厳格な躾を受けたせいで
権威に対しては
強い反抗心をもつようになったのだという。


私は残念ながら一人っ子だった。
このことはおそらく
私がアルコホーリクになるのに大きな原因となった
身勝手さを生むもとになったと思う。


ボブには
アマンダ・ノースロップという
ずっと年上の里後の姉がいた。
ボブは彼女が大好きだったが
一緒に暮らすことはできず
事実上は一人っ子として育てられた。


1894年
15歳になったボブは
セント・ジョンズベリー学院高校に入学した。


時には
高校の権威に対して
冒険的ともいえる反抗をみせるので
その事がオーラとなって学友たちをひきつけ
学友たちから人気があった。
当時も
そして生涯にわたって
ボブは
数多くの友人に恵まれたのである。


1898年
セント・ジョンズベリー学院高校卒業後
私は全米でも有数の名門大学
ダートマス大学に入り
そこで4年間をすごしたのだが
このころから
飲むことが主要な課外活動になっていた。


私は
どんどん酒にはまりこんだが
これといって
身体的、金銭的に失うものもなく
大いに楽しんでいた。
私は
飲んだ翌朝
飲み仲間の誰よりも
シャキッと元気を取り戻せたようだ。


私の生活は
他人の権利、望み、利益などのことは
少しも考えずに
とにかく自分がしたいことをしていた。
自分を中心に回っているようだった。
これは年がたつにつれて
だんだん目立つようになっていった。


1902年
ダートマス大学卒業
私は
飲酒友愛会は主席であったが
学部長の目から見た成績はそうではなかった。


ボブは
母方の祖父にならって医者になりたかった。
だが
理由は分からないが
彼の母親が強硬に反対したので
とりあえず就職するより
ほかに道はなかった。


それからの3年間
私は大きな製造関係の会社に就職し
ボストン、シカゴ、モントリオールで
鉄道関係の機材、あらゆる種類のガスエンジン
その他多くの重機を売ってすごした。
この間
私は大したツケを払う事なく
財布がゆるすかぎり飲んでいた。
時々
朝、震えがくることはあったが
3年間の間に休んだのは半日だけだった。


当時のボブは
自分のアルコホリズムの進行を無視し
否認し、あるいは気づかなかったにしても
ビジネスの世界では
出世できそうもない点は否定しなかった。


彼はまだ
医者になる事を望んでいたのである。
その目標を目指す事を
なんとか家族に納得させ
そして1905年の秋
26歳の年齢で
医学部学生としてミシガン大学に入学した。


ミシガン大学では
以前にもましてもっと飲酒に熱を入れた。
私は
途方もなくビールを飲めるという事で
飲酒友愛会のメンバーに推薦され
そこでまもなくリーダーとなった。



準備万端で大学に向かっても
いらいらと震えのため教室にも入らずに
男子学生寮に引き返す事もしばしばあった。
震えがあまりにも激しくなっていて
もし
それが教授に見つかったらどうしようという
怖れからだった。


そんな事が
たびたび繰り返され
事態はますます悪くなっていった。
学生生活は
どんちゃん騒ぎの連続であり
もはや
ひと時の酒を楽しむどころではなくなっていたのである。


この時期には
まだブラックアウトや
強迫的な飲酒欲求
言いようのない恐怖や罪悪感
あるいは
朝の飲酒の事は述べられていない。


それでも
身体の震えと授業の欠席
飲んだうえでのバカ騒ぎなど
AAメンバーの資格は十分に備えていた。


ミシガン大学に入学して2年目の
1907年春
ボブは
ある種の降伏をしている。


彼は
このままでは大学に通い続ける事はできないと判断し
「転地療法」を試みた。
身の回りのものをバッグにつめ込み
友人が所有する大きな農場へと
健康の回復をはかるためにボブは南へ向かった。


友人の農場で
ひと月ほどすごした。
頭の霧が晴れてみると
大学を辞めることが実にバカげた事だと
思えるようになり
戻って学業を続ける事にした。


教授陣とさんざんもめたあげく
私の復学はゆるされ
試験を受けさせてもらえる事になった。
私は
復学し、単位を取得した。


ボブが立派にそれをやり通す事ができたのは
生まれつきの能力と知性のおかげであると考えられる。
それはまた
アルコホーリクが時々発揮する
短気集中力のあらわれとも考えられる。
一定の期間だけなら
他の誰よりも一生懸命になって仕事をやりぬくのが
アルコホーリクによくみられる傾向なのである。


しかし
ボブは
ミシガン大学から退学を宣告されたのである。


履修単位は認められたので
1907年秋
ボブは
シカゴ近郊のラッシュ大学の三年生に
編入する事ができた。


ところが
ラッシュ大学でも
ボブの飲酒はいよいよ酷くなり
男子寮の仲間の力ではどうする事もできなくなって
とうとう彼の父親を呼ぶ事になった。


父は
私を何とかまともに立ち直らせようと
遠路はるばるやってきたが
それも無駄だった。
父の訪問には見向きもせず
私は飲み続け
ビールより強い蒸留酒を
もっと飲むようになっていった。


最終試験が近づくと
私の飲酒は特にひどさを増した。
最終試験の直前
並はずれたバカ飲みをしてしまい
答案を書こうとすると
手が震えて鉛筆をまともに握っていられなくなった。
その結果
三科目の答案用紙を完全な白紙で提出した。


当然の事ながら
審議会にかけられ
教授会は
私が本気で卒業したければ
これから一滴も酒を飲まずに
もう二学期間
再履修しなければならないと告げた。


私は
それをやり遂げ
品行
学業の両面で教授会を満足させた。


その結果
1910年
31歳の時に
ボブは
ラッシュ大学を卒業し
医学博士の学位を授与された。


品行、学業ともに称賛に価すると評価され
人もうらやむオハイオ州アクロン市立病院での
2年間のインターン実習を許可された。


インターンとしての2年間は
ほとんど病院に缶詰め状態だったので
何一つ問題は起こらなかった。
暴飲の代わりに激務がとって代わり
両方をこなす余裕はなくなってしまったのである。


1912年
33歳の時に
ドクター・ボブは
アクロンの第二ナショナル銀行ビル内に
クリニックを開業した。
そして
1948年まで
そこを拠点に開業医の仕事をしたのだった。


おそらく新米の開業医として
不規則な時間の中で
張り詰めた仕事に励んだせいであろうか?
ボブは胃の調子を悪くし
とうとう放っておけないほどになった。


私は
しょっちゅう胃の具合が悪かった。
それも2杯ほど酒を飲めば
少なくともその場の数時間は
すっきり治まることがわかって
あっという間に以前のような
飲みすぎ状態に戻った。


その後
たちまち
身体にも
かなりのツケが回ってくるようになり
ボブは
アルコホリズムの
本物の恐怖と苦しみを知る事になる。


このまま仕事を続ける事ができるだろうか?
私はもはや進退極まっていた。
なぜなら飲まなければ
胃痛の責め苦が襲ってくるし
飲めば飲んだで
今度は神経が同じ事になるからだ。


事態が
あまりにも悪化して
とうとう仕事も続けられなくなった時
ボブは自分の意志で
近くの断酒療養のための施設に入る事にした。
それも1回や2回ではなく
少なくとも12回もお世話になっているのである。


この悪夢のような生活が
3年間続いたすえに
とうとうボブは
地元の小さな病院に入院する事になった。
この病院は
地元にある断酒療養所と同じく
アルコール依存症、薬物依存症、精神病といった
社会には許容されていなかった病気をもつ患者のために
つくられた施設だった。


この病院のスタッフも
ボブのために最善を尽くしてくれたのだが
結局、うまくいかなかった。
なぜなら
ボブ自身にその気がなかったからである。


彼は友人をそそのかし
ウィスキーを1リットルほど
こっそりと院内に持ち込んでいた。
この調達がたとえ失敗しても
病院内のやり方を熟知していれば
医療用のアルコールをくすねるのは
たやすい事だったのである。


ボブの状態は
急速に悪化していった。


1914年のはじめ
父は
バーモント州セント・ジョンズベリーから医者をよこし
私は
しぶしぶ家に連れ戻された。


再び家を出られるようになるまで
2ヶ月ばかり床についていた。
その後さらに
2ヶ月ほど町にとどまってから
診察の仕事を再開するためにアクロンに戻った。


自分の身に起こった事が身にしみて
また
医者の忠告が怖くなって
1919年まで
私は酒に手をつけなかったのだ。


ボブは
1914年から1919年まで約5年間
断酒をしていた事になる。


1915年1月25日
シカゴにおいて
アン・ロビンソン・リプリーと結婚


ボブ自身
そして
アンも
ボブが酒に手をつけていなかったので
これで大丈夫だろうと信じたのだろう。


結婚生活の最初の3年間は
理想的であり
やがて訪れる不幸の影はみじんもなかった。
ボブは
しらふの生活を続けていた。
当時も
そして
ずっと変わる事無く
2人は
お互いに深い愛情をもっていた。


ボブの仕事も順調だった。
医者としての評判は上がり
ボブも仕事が大好きだった。


1919年
一人息子のスミッティが生まれる


1924年
当時5歳のスーを養女として迎える


ボブとアンは
スミッティが一人っ子では
甘やかしてしまい
ダメな子にしてしまうのではないか?
と心配だったようです。


ボブが
イリノイ州に住む
アンに出会ったのは
セント・ジョンズベリー学院高校の最上級生の時だった。
体育館で催されたダンスパーティの会場で
ボブはアンに出会った。
その時
アンは
ウェルズリー校の学生で
学友たちと一緒に休日をすごしていた。


小柄で控えめなアンは
生涯
変わる事のない快活さと愛らしさをもつ
落ち着きのある女性だった。
鉄道員の一家の家計は
あまり裕福とはいえなかったが
アンは
暖かい両親の目の行き届いた家庭で育った。


ボブとアンの出会いは
嵐のようなラブ・ストーリーの始まりとは
ほど遠いものだったし
交際が始まってから結婚にこぎつけるまで
じつに17年もかかっている。
ボブとアンの出会いから
ボブには
学業、就職、病院インターンという年月が待ち受けていたし
アンもまた
神聖な結婚相手に
大酒飲みの男を選ぼうとしている事について
当然の危惧を募らせていた可能性がある。


それはともかく
アンは
結婚するまで学校の教師として働き
この期間も2人は定期的に会い
交際を続けていたのである。



1919年1月16日
禁酒法が可決され
私はこれで安心だと思った。
誰もがそれぞれの資力がゆるす限り
酒を何本も
あるいは何ケースも買い占めるだろうが
それもすぐに底をつくだろう。


この考え方は
アルコホーリク特有の理屈であり
当時の酒飲みなら
誰もが思いつく発想だった。


だから
私が今少しくらい飲んでも
どってことはないのだ。


最初は
節制して飲んでいたが
いつも無惨な失敗に終わった昔の飲み方に戻るには
大して時間はかからなかった。
しかも
もっとひどくなり
元の飲みっぷりに逆戻りするだけではすまなかった。


それから数年間
私には
はっきりした2つの恐怖症が現れた。
ひとつは不眠の恐怖
もうひとつは
酒がなくなることへの恐怖だった。
時には私は朝の飲酒欲求に
屈服することもあったが
そうするとほんの数時間で
その日はとても働ける状態ではなくなった。


そうなればその夕方
こっそり家に酒を忍び込ませる事ができる確率は
低くなるわけで
それは
眠ろうとして何度も寝返りを打つ
苦しい夜を迎える事につながり
耐えがたい翌朝の震えを経験する事を意味した。


もし妻が午後外出する予定があれば
大量の酒をこっそり仕入れて
それを石炭箱
洗濯物入れ
ドアの脇の柱の上
地下室の梁の上
タイルの割れ目などに
こっそり隠した。
古い旅行カバンや
古い空き缶入れ
灰落としの箱すらも大いに利用した。
また
私は
酒を小瓶に分け入れ
靴下の折り目のなかに忍ばせたりもした。


この間
私たちは友人たちから
多かれ少なかれのけ者にされてきた。


酔っぱらうために
金を稼いで
酒を手に入れ
家にこっそり忍び込ませ
眠りにつくために
酔っぱらって
朝、震えがきたら
仕事ができるように大量の鎮静剤を飲んで
それはうんざりするほど延々と続いた。


このような考えにもとづいた無駄なあがきが
結局
ボブを
出口のない
まるで回し車に乗ったハツカネズミのような
状態にしてしまった。


これが
1919年から1935年まで
17年間続いた悪夢である。


子どもたちが成長していく一方で
ボブのアルコホリズムの進行は
子どもの目から見ても
ますます酷くなっていた。


私はよく

子どもたち
友人たちに
もう飲まないと約束したものだが
そう言った時は心底そう思って
言ったにもかかわらず
舌の根も乾かぬうちに
約束を反故にした。


ボブは
このような状況でありながら
一般開業医として出発してから
外科医の追加訓練を受け
1929年には
肛門科および直腸外科の専門医師の資格を
取得したのである。
また
長年にわたり
ボルティモアーオハイオ鉄道の
アクロン管区の緊急担当医も務めた。


ボブは
自分の酒の問題が世間に知れ渡ったり
病院内の噂にならないように
なんとか隠し通そうと必死だった。
特に仕事関係の人たちの場合
廃業に追い込まれる可能性があったからだ。


だが
その仮面は
しだいにはがれていった。
ボブ自身は
誰にも知られていないと思っていたのだが
わりと多くの人々が
彼の飲酒問題に気づいていたのである。


ドクター・ボブの飲酒は
仕事関係にとどまらず
家庭生活にも影を落としていたが
幼い頃には
父親の飲酒問題に気づかなかった
2人の子どもの想い出には幸せなものが多い。


1933年になって
ビールが合法化された。
自分は大丈夫だと思った。
ビールなら飲みたいだけ飲める。
ビールなんて無害だし
ビールで酔っぱらった人なんて
1人もいやしないのだからと。
それから
ビールの後に
ストレートの強い酒が続くようになった。
もちろん
その結果たるや無惨の一言に尽き
ビール実験はおしまいとなった。


1933年のはじめ
ボブ自身のアルコホリズムを克服しようと
オックスフォード・グループの
ミーティングに参加し始める


ボブに
オックスフォード・グループの
ミーティングに参加するように
最初に説得したのは妻のアンだった。
ボブには
会員たちが
落ち着いて
健康で
幸せそうで
楽しそうに見えたので
ボブ自身も彼らに魅きつけられていった。


オックスフォード・グループの会員たちが
目指していたものは
まず徹底的な自己分析を通して神に降伏する事であり
もう一人の人に自分自身の性格上の欠点を告白し
傷つけた人たちに埋め合わせをする事
そして見返りを期待せずに
与える事によって魂の再生を達成する事である。


そこでは
ともかく祈る事
すべてにわたり
神の導きを求める事が強調されており
同時に
この運動はまた
聖書の研究を重視し
独自の文献も発行していた。


オックスフォード・グループの
プログラムの中心には
四つの絶対性が据えられている。


絶対的な正直
絶対的な無私
絶対的な潔白
絶対的な愛


1948年ボブは
四つの絶対性という尺度で
私自身の決定を注意深く吟味すれば
私の解答が道を大きく外れることはまずない と
語っている。


ボブは
それから2年半ほど
オックスフォード・グループの
ミーティングに欠かさず出席し続け
たっぷり時間をかけて
オックスフォード・グループの教義を研究した。
彼は聖書を読み
聖人たちの生き方を研究し
あらゆる時代の霊的で宗教的な哲学を
吸収しようと
それについて知っていると思われる
多くの人々と話をした。
それでも彼は
毎晩酔っぱらっていたのである。


1934年から35年にかけて
ボブの妻と子どもたちは
ぎりぎりの耐乏生活を送っていた。
ボブが口にする約束は
心からのものであったが
結果的には
ことごとく破られた。


アンは
何とか家族の結束を保つために
できるだけの手を尽くし
夫が自分自身の問題に向き合い
その解決策を見つけてくれるように祈った。


オックスフォード・グループが
自分の飲酒の問題の答えになるかもしれない事は
最初から感じていたが
自分がかろうじて興味を持ち続けられたのは
妻の関心のおかげであった。


妻がこの長い間
どうやって
その信仰心と勇気を保ち続けたのかは
知るよしもないが
彼女はそうし続けた。
もし彼女の努力がなかったら
自分はとうの昔に死んでいただろう。


どういうわけか
私たちアルコホーリクは
世界で一番素晴らしい女性を
妻に選ぶ恵みを与えられているようだ。
なぜそんな彼女たちが
私たちがもたらす拷問に
耐えなくてはいけないのかは
私にはわからない。


AAは
1935年5月12日(母の日)に
オハイオ州アクロンで
ビル・Wとドクター・ボブが出会ったことから始まりました。
ボブは2年間
オックスフォード・グループに通っていたので
彼の解決策も行動のプログラムも知っていました。
しかし飲酒はとまらなかった。
ビルはシルクワース博士に言われたとおりに
ボブの問題は
肉体的アレルギーと
精神的強迫観念であると指摘しました。
自分の問題が理解できるとボブは回復し始めました。


1935年5月11日(土曜日)
ヘンリエッタ・サイバーリングは
ビルからの電話を受けた。
彼女は
アクロンのグッドイヤー・タイヤ・アンド・ラバー社の
前社長の義理の娘だった。


ヘンリエッタに電話をかけたビルは必死の思いだった。
その時まで
ビルは落ち着かず
アクロンの中心街、サウス・メインストリートにある
メイフラワー・ホテルのロビーを
行ったり来たりしていたのだが
いま飲まないでいるためには
誰かもう一人のアルコホーリクに話しかけなければならない
と突然ひらめいたのである。


ビルは気が付くと
バーの反対側の端にある教会の案内の前に立っていた。
教会の住所録から行き当たりばったりに
ウォルター・タンクスという
聖公会の牧師に電話をかけた。
牧師なら
アクロン周辺のオックスフォード・グループの人を
知っているのではないかと思ったのだ。
牧師は
アルコホーリクをビルに引き合わせてくれそうな
人の名前を10人くらい教えてくれた。


ビルの記述によれば
リストにあった10人のうち9人にまで
電話をかけ終えた時
最後に残っていたのが
ヘンリエッタだったと語られている。


ヘンリエッタはこの時の事を
下記のように述べている。


牧師が教えてくれた何人かのなかの1人が
私の親しい友人の
ノーマン・シェパードだったのです。
このかたは
私がボブのためにしようとしていた事を
あらかじめご存知でした。
それで
ノーマンはビルに
「今夜
私はニューヨークに発たねばなりませんが
ヘンリエッタ・サイバーリングに電話をしてください。
彼女がお会いするでしょうから」と言ったのです。


ビルは
私は
オックスフォード・グループの者ですが
ニューヨークから来た酔っぱらいなのです と
彼女に伝えた。
自分が飲まずにいるためには
もう一人のアルコホーリクを手助けしていく
必要がある事を彼女に説明した。


ヘンリエッタはビルに下記のように話した。


私はアルコホーリクではありませんが
あなたがおっしゃる霊的な事は
私にも理解できます。
あなたが手助けできそうな人を知っています。
これからすぐにいらっしゃいませんか?
私はこれまで
数々の困難な問題に取り組んできており
その回答の多くを
オックスフォード・グループの中に
見いだすことができました。
ちょうどいい人がいます。
ボブは一生懸命お酒をやめようとしました。
治療を受け
宗教的なアプローチも
オックスフォード・グループもやってみました。
ボブは
全力を尽くしていろいろやってみたのですが
どういうわけかうまくいかないようです。
ドクター・ボブとアンのご夫婦と
話をしてみたらいかがでしょうか?


ヘンリエッタは
アンに電話をし
ボブの助けになってくれる人を
引き合わせたいから来ないかと言った。


ところがボブは
母の日のための鉢植えの花を両脇に抱えて
酔っぱらって帰宅していた。
台所のテーブルの上に置いたまま
そのまま床に崩れ落ちたあと
昏睡状態に陥ってしまった。


1935年5月12日(母の日)
ビル・Wとドクター・ボブが出会う。



翌日
ヘンリエッタがまた電話をしてきた。
全然気乗りはしなかったが
儀礼的にボブは
「行ってみよう」と言った。
アンには
15分以上は長居しないという約束を
取り付けた。


ボブとアンは彼女の家に夕方17時きっかりに入り
そこを離れたのは
夜更けの23時15分を回っていた。


ビルはこの時のボブの様子を
下記のように語っている。


ボブは
やがて私のパートナーとなり
一度として口論など起こす事のない
最高の親友になるのだが
その時は
とても創始者といわれるような
人物には見えなかった。
ひどく震えており
ソワソワして落ち着かず
15分しかいられないと言うのだ。
一杯飲んだ方がいいんじゃないかと
私がボブに言うと
少し当惑したようすだったが
幾分明るくなった。


そして
ビルはこの時の会話を
下記のように語っている。


完全にお互いさまのことだった。
私は説教するのをやめた。
彼が私を必要とするのと同じように
私もこのアルコホーリクを
必要としていることが分かったのだ。
まさにこれだった!
このギブ・アンド・テイクこそが
今日
AAの12番目のステップ活動の
核心をなしている。


ボブはこの時の会話を
下記のように語っている。


ビルはアルコホリズムの情報を私にくれ
それが役立ったのは疑うべくもない。
何よりも大切なのは
ビルは自分自身の体験から
アルコホリズムなるものが
何なのかを身をもって知っていた
私が話した初めての人間だったことだ。
言い換えれば
ビルは私の考えを話した。
彼はすべての答えを知っていたが
それは本から得た知識ではなかったのだ。


ビルは
長年のすさまじい飲酒を経験し
アルコホーリクがもつ経験を
ほとんど体験していながら
私が
自分でもやってみようと思っていた
いわば「霊的手法」によって回復していたのだった。


ようするに
ボブにとって重要だったのは
話しているのが
もう一人のアルコホーリクである
という事実だったのである。


もしも
この時ボブに
ウィリアム・ジェームズ
カール・ユング
ドクター・シルクワース
フランク・ブックマン
オックスフォード・グループの会員が
話しかけたとしても
しょせんは
ありきたりの講義で
終わっていた事だろう。


ビルは
シルクワース博士から聞かされた忠告に従って
アルコホリズムの身体的側面について
「破滅は避けられないという宣告」を力説した。
これが
ボブの自我の収縮を決定づけ
「新しい生き方へと誘引するきっかけになった」のである。


ボブの娘、スーは
ビルに下記のように語っている。


父は
あなたとお話しできた事で
すっかり夢中になっていました。


何もかも話してくれたわけではありませんが
父は
2人は同じ問題を抱えているので
あなたとはうまくいく
と言いました。
父は
独りぼっちではないと気づいたのです。
オックスフォード・グループでは
自分と共通の問題をもっている仲間がいるとは
感じられなかったと
父は言っていましたから。


アルコホーリクス・アノニマスは
経験と力と希望を分かち合って
「共通する問題」を解決し
ほかの人たちも
アルコホリズムから回復するように
手助けしたいという共同体である。


ボブは
二人に重大な違いがあった事を指摘している。


ビルがサービスという概念をもっていたのに対して
私にはそれがなかった。


ビルが伝え
ボブが痛感したサービスという概念は
ただちに行動に移されていった。
つまり
もう一人のアルコホーリクを手助けする
という試みを開始したのである。


私たちの本来の目的は
飲まないで生きていくことであり
ほかのアルコホーリクも
飲まない生き方を達成するように手助けすることである。


ドクター・ボブは


1935年6月2日(日曜日)
アメリカ医学界総会のため
アトランティックシティ行きの列車に乗り込むと
ありったけのスコッチを飲み干し
ホテルに向かう途中さらに何本か買い込んだ。


6月3日(月曜日)
夕食後までしらふで通したが
バーで思い切り飲み
それから部屋に戻って飲み続けた。


6月4日(火曜日)
朝から飲み始め
アクロンへ戻るため駅に向かったボブは
途中でさらに酒を買い込んだ。
その後の記憶がボブにはなく・・・


6月6日(木曜日)
ボブのクリニックの看護師夫婦の家で目を覚ました。
アンとビルがボブを迎えに行き、ボブの家まで連れ戻した。


ボブが帰宅した時
6月10日(月曜日)に
ボブが手術執刀を控えている事が分った。
6月7日(金曜日)、8日(土曜日)、9日(日曜日)
ボブは酒を抜いた。


6月10日(月曜日)
ボブ、アン、ビルはパニックに陥っていた。
はたしてボブに手術執刀ができるのか?
緊張しすぎても、震えていても手術はできない。
メスの手元がひとつ狂えば
患者の命を奪う事になるのだから。
手術執刀のため市立病院へ向かう途中
ボブは時折
自分の手をかざして
震えがおさまっているかどうか調べていた。
車が止まる寸前
アンと同じく現実主義者だったビルは
ボブにビールを一本、手渡した。


1935年6月10日午前9時頃
ビルが手渡した一本のビールが
ボブの飲んだ最後の酒となった。


その地はアクロン
時は1935年6月10日
アルコホーリクス・アノニマスの
奇跡の回復の連鎖が始まった。


それからビルとアンは帰宅し
手術の結果を待つ事になった。
それから何時間もすぎてから
ボブから電話が入った。
手術は成功したのである!
だが
その電話の後
ボブは帰ってこなかった。


ビルとボブが初めて出会った時には
ボブは
自分の飲酒の問題がまだ誰にも知られていないという
アルコホーリクに共通する
おなじみの強迫観念をもっていた。
自分の飲酒の問題をみんなに認めるわけにはいかない。
その人たちのおかげで生計を立ててこれたのだ。
そんな事をみんなに明かして
家族の立場を一層悪くし
自分の今後の仕事まで無くせというのか?
何だってする気はある。
でもそれだけはできない。


しかし
ボブは手術が成功すると勇敢にも
これまで怖れていた相手の人たちに
自分の飲酒の問題について話しに行った。
驚いた事に
みんなはちゃんと受け入れてくれた。
多くの人がボブの飲酒の事を
すでに知っていたのも驚きだった。
ボブは自分の車で
自分が傷つけた人たちの所を
片っ端から回った。
そうしながら身震いを止める事ができなかった。
特に仕事関係の人たちの場合
廃業に追い込まれる可能性があったからだ。


夜遅く
ボブは疲労困ぱいしながらも
とても幸せな気持ちで家にたどり着いた。


ボブは
埋め合せをしなければ
酒をやめられない事を学んだ。
そして
埋め合せを一日でやり遂げた。


ボブは
地域社会でも非常に重要な人物となり
30年間の飲酒のためにできた借金も
4年で償う事ができた。


1939年8月
ドクター・ボブとシスター・イグナシアが
聖トーマス病院で
アルコホーリクの治療を開始する



彼は
他界する1950年まで
AAのメッセージを
5,000人以上のアルコホーリクの男女に伝え
彼らの医療費の請求にことは考えずに
治療を施した。


その並外れた奉仕において
彼はオハイオ州アクロンの
聖トーマス病院のシスター・イグナシアの
助力を多く得た。


ボブは毎日
聖トーマス病院のアルコール病棟に出向いていましたが
彼には優秀な外科医としての通常業務がありましたから
これは
AAの完全なボランティア活動だったのです。


はまり込んでいた恐ろしい呪いから解かれるのは
何とも言いようのない素晴らしい恵みである。
私は健康状態もよくなり
自尊心や同僚からの信頼も取り戻した。
家庭生活は申し分なくなり
仕事は
こうした不確定の時代にしては
望み得ないほどにうまくいっている。


私は自分が学んだものを
それを必要とし
望んでいる他の人たちに伝えていくことに
多くの時間を費やしている。
それには4つの理由がある。


1.使命感(Sense of duty)
2.他の人たちが回復していくのを見る事は
  私にとっての喜びだから(It is a pleasure)
3.そうするなかで
  私を助けてくれた仲間への
  恩返しになるから
4.そうするたびに
  私自身の再飲酒に対する危険を
  減らす事ができるから


どうしてAAミーティングに欠かさず来るのですか?
という質問に
ボブは下記のように答えている。


私自身の再飲酒に対する危険を減らず事ができるからだよ。


私はアルコホーリクの仲間に会う事が
楽しみでしょうがないんだよ。


今にも
あのドアから入ってくるかもしれない
新しい仲間のために
私は
この場所に座っているんだ。
AAのプログラムを実践している
私自身の存在が
AAのプログラムの有効性を証明する事になるんだから。


新しい仲間が来てくれるからこそ
私は
ミーティングに足を運び
私自身の再飲酒に対する危険を減らず事ができるんだ。



友人たちが楽しそうに飲んでいるのを見て
自分は飲めない事を思うとひどく動揺したが
自分にもかつてはそうした特権があったのに
ひどく乱用したために取り上げられてしまったのだと
自分に言い聞かせるようにした。
誰一人として私を突き倒して
酒を無理やり私の喉元に
流し込んだわけではないのだから。


もしあなたが無神論者、不可知論者、懐疑論者
あるいは本書を受け容れる妨げになっているような
何らかの知的プライドをお持ちなら
それを残念に思う。
まだあなたが
自分は一人で酒を克服できるほど
強い意志があるとお考えだとしても
それはあなたの自由だ。


だがあなたが本当に
永久に酒をやめたいと願い
心底助けが必要だと思うのなら
私たちにはそのための答えが提供できる。
あなたに次のもう一杯を手に入れるために
費やした熱意の半分もあれば
それは決して失敗することはない。


あなたの天なる父(Heavenly Father)は
決してあなたを
失望させることはなさらない。



1939年11月~12月
アクロンAAが
オックスフォード・グループから決別
ドクター・ボブの自宅で
ミーティングが始まる


1942年
ボブとビルがビッグブックで
不当な利益を得たとして糾弾される


1948年夏
ドクター・ボブは前立腺癌を自覚し
診察業務から引退


1948年12月(デトロイト)
ドクター・ボブの重要なスピーチ


これまでの13年間のAAの成果を
私たちはよく知っています。
しかし
私たちはここから
どこへ向かっていくのでしょうか?
私たちのメンバー数は現在
ひかえめに見積もっても
7万人には達していると思われます。
これからも
メンバーは増えていくのでしょうか?
たぶん
それはAAメンバー一人ひとりの活動しだいでしょう。
私たちの選択によって
成長することも
成長しないこともあり得ます。
私たちにまとわりつく
派閥の争いさえ避けることができたら
また
論争をひきおこす問題
宗教的、政治的
禁酒運動のような飲酒の問題に対して
慎重であるならば
そしてセントラル・オフィスを通じて一体性を保ち
私たちのプログラムのシンプルさを
大切にしていくならば
さらにまた
私たちが自らの責任
すなわち飲まないで生き
それを続け
私たちより不運な境遇にいる兄弟たちにも
同じプログラムが与えられるよう
手助けをしていくことを忘れないならば
私たちはこれからも成長し
ゆるしあい
発展し続けることができるでしょう。


1949年3月
ドクター・ボブ
AA評議会は時期尚早と判断


1949年6月1日
アン・リプリー・スミス死去



アンは肺炎を発症し
それがもとで急激な心臓発作を起こした。


ボブとアンが聖トーマス病院に着いた時
ボブにも疲れが出ていた。
愛するアンを心配するあまり
その不安も重なっていた。
アンは数日間、持ちこたえたが
ついに、ご臨終の時を迎える事になった。


ボブのひとり息子、スミッティは
つぎのように語っている。


私の母は
洞察力に富み
おだやかで
思いやりにあふれた女性でした。
しかし同時に
自分の信じるもののためなら
あるいは
家族を守るためなら
闘う事さえ辞さない人でもありました。
父にとって
このような母が何よりも大切だったのです。
父はAAで与えられた役割を
アン・スミスという存在に支えられて
行っていたのです。


アンの死亡が報道されると
ボブがAAの共同創始者である事が
一般社会にも伝えられた。


スミス夫人の素晴らしい働きが
存命中にひろく認められなかったのは
残念に思われるが
彼女が救った数多くの人々の心には
感謝の気持ちがあふれている。
この地に誕生したAA運動を大切にし
この運動を育てるために
数多くの事を成し遂げたこの立派な女性を
アクロンの人々は誇りにすべきである。



1950年6月28日~30日
クリーブランドにて
第1回インターナショナル・コンベンション開催
12の伝統を承認する
これがドクター・ボブにとって
最後の大規模集会への参加となった



~ドクター・ボブのラストメッセージ~


私たちのシンプルな12のステップを
煮詰めてみると
それは
『愛』と『サービス』という言葉に
溶け込んでしまいます。


過ちをおかす身体器官である舌を警戒することを
忘れないでください。
言葉を使う必要がある時には
親切、熟慮、忍耐の心で
それを用いましょう。


私たちには
AAのプログラムを説明するために
時間をかけ
背中をたたいて最初の1回か2回の
ミーティングに案内してくれた人がいました。
その親切で思慮深い
ささやかではあっても
たくさんの行いをしてくれた人々がいなかったら
私たちの誰一人として
ここにはいなかったでしょう。
ですから
私たちを救ってくれたこの偉大なサービス活動を
まだ幸運に恵まれていない兄弟たちに
手渡さないような
そのような自分であってはなりません。


ボブは
他界する前に
やっておかなければならないAAの仕事がひとつ残っていた。
それは
提案されている評議会にかかわるものであり
ある意味では
多くのAAメンバーたちに対して
そしてまた
これからやってくるすべての仲間に対して贈る
ボブの
そしてビルの
「サービス」というレガシーの事だった。


ビルは
たとえ失敗しても
とにかく評議会を招集しなければならない
と考えていた。


ボブは言った。


ビル
それは私たちの
ではなく
AAの決定でなければならない。
その評議会を
ぜひ招集しよう。
私は良い事だと思う。


ビルは
ボブの家の前の踏み段を降り
もう一度
ボブを目に焼き付けるために振り返った。


ボブは
明るいグレーのスーツをきちんと着て
直立不動で立っていた。
これが私のパートナーだ!
私に対しては
一度として辛らつな言葉など言ったことのない人物だった。
懐かしいあの開けっぴろげの微笑みを浮かべて
冗談のようにボブは言った。


忘れるなよ。
ビル。
これを台無しにするなよ。
シンプルのままにしておこうじゃないか!


それが
二人の会話の最後となった。



死についてボブは
ひじょうに気軽に語っていたという。


空港で飛行機が離陸する時
その飛行機は
しばらくの間は見えているが
やがて見えなくなる。
だが
見えなくなっても
バラバラになったり
消えてしまったりしたわけではないのだ。
飛行機は
新しい地平線に向かうだけだ。
それが
私の死に対する感じ方なんだ。
私はそこでも
新しい地平線を見つけるのだと思う。


1950年11月16日
ドクター・ボブは
この世の苦しみから去り
「新しい地平線」へと飛び去った。


葬儀は
古い聖公会の教会で
ウォルター・タンクス牧師によって
執り行われた。


15年前にかかってきた一本の電話。
ウォルター・タンクス牧師がそれを受ける事によって
はじめてボブとビルの出会いの扉が開かれた。


ボブは
マウント・ピースの共同墓地に埋葬された。
彼の隣には
長年連れ添ってきたアンが眠っている。


そこには
壮麗な記念碑も
AAの碑文も見当たらず
ただ「シンプルな墓石」があるだけだった。



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